部屋の中が少しずつ明るさを増していく。
 そろそろ始発が動き出しているだろうかと、無意識に考えている自分がいた。誰が俺のことを待っているわけでもないのに。
 目が覚める刹那に見た、記憶の切れ端をつないだような夢を思い出した。
 胸が、かすかに軋む。

「慧太さん、猫飼ってるんですよね」

 細い煙を吐き出して、マユコが言う。
 ゆらゆらといたずらに鼻先を通り過ぎていく紫煙は、メンソールの香りがした。俺も吸いたくなってくる。

「かわいいですか?」
「前にも訊かなかったっけ、それ」
「あ、おぼえてるんだ」
「……かわいいよ」

 思いのほかかすれた声になったことに、気づかないふりをした。
 ミネラルウォーターは結局半分も飲まなかった。少しぬるくなったペットボトルをサイドボードに置いて、ベッドから立ち上がる。床に落ちている服をのろのろと拾っていく。
 帰ろう。寝たら少しはラクになる気がした疲労が、未だにまとわりついている。それならばここに長居する意味なんてどこにもない。

「シャワーかして」
「風呂はそこ。あと、飼ってるなら、ちゃんと首輪しとかないと逃げちゃいますよ?」

 彼女が指さしたドアへ向かい、ドアノブに手をかけたところで、

「“うみ”ちゃん」

 シュ、と火が消える音を、背後で聞いた。
 思わずそちらへ顔を向けていた。マユコは、そんな俺を驚いたような目で見て、でもすぐに口の両端を持ち上げてみせた。

「さっき、寝言で呼んでた」

 笑顔のまま、そっか、と彼女が言う。

「……そっか、やっぱそうなんだ。だから雰囲気やさしくなったのか。今頃気づくとか、あたし超鈍いですよね。そんで意外とショック受けてやんの」

 誘わなけりゃよかったな、と最後に彼女が小さく呟いたのが聞こえた。そのときどんな顔をしていたのかはわからない。笑っていたかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。
 かまわなかった、どちらでも。
 俺には、関係がない。
 浴室のドアが閉められた音が、狭いワンルームに響いた。

 部屋に帰ってきたのは、バイトを終えて帰ってくる時間とほとんど同じだった。
 カーテンが閉められた部屋の中は、外の明るさに比べてひっそりと薄暗い。
 規則的な寝息が聞こえる。
 ギターケースを降ろさないまま、俺は部屋の奥へ進む。白いソファの前で、しゃがみ込んだ。
 毛布にくるまった小さな体が呼吸している。伏せられたまぶた。見えない猫のような目。顔にかかった茶色い髪を、指先でそっと退けた。

「……けーた……」

 いつも、舌足らずに俺の名前を呼ぶ。
 乾いた唇がかすかに動く。

「おかえり」

 うっすらと開かれたまぶたから見える焦げ茶色の瞳は、涙の膜でふるえるようにゆれている。
 寝起きのかすれた声で、海未が言った。
 “おかえり”。

「……ただいま」

 視界が滲む。内側から、痺れてく。痺れを堪えるように唇を噛むのだが、それはまるで――。
 まるで、涙を堪える感覚と似ていた。
 白昼夢を見ているような、自身の地軸が、自分の心が見当たらない不安定さ。
 楽しいと思ったことは、一度もなかった。
 ただ、ギターを弾いているときは、なにもいらないと思える。現実を忘れられる、俺の唯一の方法だった。
 「なんのために」。そんな理由なんていらなかった。
 なにもいらなかった。このままでいられたらそれでよかったんだ。
 それで、よかったのに。

 「おかえり」という言葉に、「ただいま」と返す。それはまるでなにかを共有しているようだった。
 誰が俺のことを待っているわけでもないこの部屋で、少しずつ、たしかに胸が軋んでいく。
 いつか、おまえもいなくなるのだろうか。
 あの猫みたいに。


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