ギターを二本持っている。
 一つは、バイト代から自分で購入したエレキギター。もう一つは、俺にギターを教えてくれた兄貴の友人からの、おさがりのアコースティックギターだ。
 俺が弾くために選ぶのはたいてい、前者のギターだった。
 ピックで、弦を弾く。音が鳴る。視界が滲む。内側から痺れていく。そのとき痺れを堪えるように唇を噛むのだが、それはまるで、涙を堪える感覚と似ていた。
 弾くのは、疲れる。ギターを弾くたび、精神が擦り切られていくような感覚をおぼえた。ただそれを実感するのはすべてが終わった後で、弾いてる間はほとんど無感覚に近い。白昼夢をみているような、自身の地軸が、自分の心が見当たらない不安定さ。
 そんなわけで、終わった後はいつもひどく疲れている。それから、わけのわからないむなしさがやってくる。
 ギターを弾いて楽しいと感じたことは一度もなかった。
 じゃあ何のために、と問われたら、俺は――。



「慧太さん!」

 高く、肌に貼りつくようなその声には、聞きおぼえがあった。
 振り返ると、横断歩道を渡る人波の中に、一人の女が手をふりながらこちらへ近づいてくるのが見えた。夜の街で一際目立つ金髪のショートボブに、派手な化粧。でもどこか愛嬌のある顔立ちの女。

「慧太さん、あたしのことわかります?」

 彼女は俺の前に立つと、顔を覗き込みながら訊ねてきた。その仕草で、ああ、と思い出した。バイト先のバーの常連客だ。そういえば最近、姿を見ていなかった気がする。
 名前、なんだったっけ。たしかマミコかマイコか、そんな感じの名前だった。だけどはっきりとは思い出せない。

「マユコですよ、マユコ! もお、常連の名前くらいおぼえたほうがいいんじゃないですか?」

 無言の俺の様子を察してか、彼女が自ら答えてくれた。その声色は多少呆れてはいたものの、本人は特に嫌な顔はしてはなくて、軽薄な笑みすら浮かべていた。
 なにがそんなに楽しいんだろう。ついそんな思考が頭をよぎった。

「お疲れ様でした、ライブ」

 俺の背中のギターケースへ目を向けて、マユコが言う。

「ああ、いたの」
「いましたよー、てか最前列にいたし」
「全然気づかなかったわ」
「ひっど〜。ま、でも来てよかったですよ。めっちゃイケメンのギターがいるからって、友だちに引っ張られて来ただけだったんですけど」
「……へえ」
「慧太さん、ギターやってたんですね。知らなかったな。ギターはともかく、慧太さんがバンド組んでるとか超意外〜」

 ケタケタと笑う彼女に、俺も愛想程度に笑みを返した。
 歩道を歩き出せば、マユコは俺の隣に並んで、当たり前のようについてくる。疲れているせいで、追い返す気にもなれない。

「一人だけど、友だちは?」

 歩きながら、機嫌よさげに鼻歌を歌い出すマユコに訊ねる。

「ああ、現地解散です。路線違うし」
「ふうん……」
「慧太さんこそ、帰りはやくないですか? 打ち上げはとかなかったんですか?」
「途中で抜けた」
「あははっ、慧太さんっぽい!」

 意外だとか俺っぽいだとか、彼女が抱く俺という姿がちっともわからない。いいけど、どうでも。
 言葉はもちろん、笑みを返すのさえ面倒になっていた。バイトで、俺は店員として、彼女に対してどんなふうに接していたかを記憶から探ってみる。だけど彼女の名前さえうろ覚えだったのに、そんなもの思い出せるはずもない。
 だいたい、俺は誰に対してだって、日頃マシな接客態度じゃなかった。それでも今まで表立って態度を非難されたことはないし、ましてや俺が店に入ってから女の客が増えたとかいうのだから、笑える。ほんとうに。

 背負ったギターケースがずしりと重い。歩くのがだるい。
 ポケットに突っ込んでいる手の、利き手の指先が、ずっと痺れている気がする。直接指で弾いてるわけでもないのに。

「ね、慧太さん」

 ふいに、横から顔を覗き込まれた。
 マユコの大ぶりな輪っかのピアスがゆれて、街灯の明かりでチカチカ光る。

「あたしのアパート、こっから近いんですけど……」

 よかったら飲み直しましょうよ、と腕にふれてくる手を払わなかったのは、彼女に恥じらうような素振りが一切なかったから。
 俺へ向ける、あきらかな意味が含まれた笑みはどこまでも軽く、それが逆に救いに思えた。

「……いいよ」

 ふれる体温がいやに心地好く思えて、吐き気がした。

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