トイレへ向かうときにも上った石階段をぼんやりと下りていく。
踊り場に差しかかって、そこからまた眼下の階段を下ろうとしたけれど、歩みが止まってしまった。どうしてか足が動かない。仕方なく、段の隅っこに力なく座り込んだ。
前を向くと、祭りの光景が少しばかり見渡せた。雑然としているのにキラキラしている夏の夜だった。なんだかまるで蜃気楼のように、手を伸ばしても届かない景色に見える。
「……」
ああ、この感覚。同じだ、あのときと。
ひとりぼっちでベンチの上で膝を抱えていた、あのときと同じだ。
考えなしに実家を出て、知らない場所にひとりぼっちで、むなしくて、さみしくて、どうしようもなかった。
でもあのときと違うのは、いまは夏で、いまのあたしは――。
「……けーた……」
“誰か”をまっている。
「誰か待ってんの?」
あのときと同じ言葉が、頭の上から降ってきた。
でもあのときと違うのは、声がほんの少しいじわるく笑っていて、その声を、その相手を、あたしは知っているということ。
隣に感じる温もりを知っている。誰かが隣にいるって、どうしてこんなに安心するのかな。
顔を上げる。まるであたしをからかうような、いじわるな薄茶色の目とかち合った。
「なに、迷子?」
「……迷子じゃないよ」
迷子はそっちじゃん。そう言ってやりたかった。なのになんだか胸が詰まって、結局あたしはなんにも言えなかった。
なに食わぬ顔してさ、ねえ、なにしてんの。どこいってたの? おいてかないでよ。
「……けーたの、ばか」
それだけ、やっと言えた。
けーたは「あっそう」という顔をしながら、あたしの髪をくしゃっとなでた。猫の頭でもなでるみたいに。
「……けーた」
「なに」
「お腹すいた」
「……食う?」
「なにを?」
わたあめ、と言って、けーたが割り箸が刺さった袋を脇から出した。
袋の表面には猫のキャラクターが描かれていて、あたしはそれをけーたが買ったのかと思うとたまらなくおかしくなって、声をあげて笑ってしまった。
「笑ってんなら俺が食うからな」
「食べる、食べるよ」
慌てて言えば、かなり不機嫌そうに袋を渡された。雨の日にさつきちゃんに傘を差し出す『トトロ』のカンタみたい、と思う。
巻き付けられたゴムを取って袋を開けると、粗目の甘い香りが広がって、懐かしい気持ちになる。
真っ白なふわふわのわたあめ。ほんとうに買うなんて、正直思わなかった。
ぱくりと、一口かじった。
「……あまい」
あまい。べつに、それだけだ。
でもたったそれだけで、安心した。不安が、むなしさが、小さくなっていく。
「一口」
言うなり、けーたが横からわたあめにかじりついた。あま、とぼやいて、唇を舐める。それから変わらず不機嫌そうな顔で、うまい? と訊かれたので、うんと頷いた。
あたしはまた一口、わたあめをかじった。
「……海未」
名前を呼ばれたことがずいぶん久しぶりに感じられた。実際そうだったかもしれない。
けーたの視線は祭りの光景へ向けられているようで、あたしを見てはいなかった。はじめて名前を呼ばれたときも、けーたは横顔だったな、と思い出した。
「ごめん」
かすかに唇が動くのを、ただ見ていた。
視線を前へ向ける。あたしは、うんと頷いた。けーたがそれを見ていたかはわからない。
「……花火」
わたあめをすっかり食べ終えた頃、けーたがあたしに顔を向けた。
「秋吉が花火買ったっつってた」
「うん」
「おまえ、やりたい?」
「うん」
頷くと、おもむろにけーたが腰を上げた。そのとき鼻先をかすめたのは、香水の人工的な甘い香りに、煙草と、少しだけ汗が混ざったようなにおいだった。
けーたのにおい。わたあめとは全然違う、ちっともやさしくない甘さが、どうしてか安心するのだ。
風にゆれる少しくすんだ色の茶髪。細い体の線。ギターケースのない後ろ姿。
「なにしてんの」
一段階段を下りて、あたしに振り向く。おいてくよ、と素っ気ない言葉を残して、また前を向いて下りていく。
あたしは小走りにその後ろ姿を追った。隣に立つと、けーたはあたしを見下ろし、いいこ、と笑った。むかつく。睨みつけてやるけれど、きっとそんなのになんの意味もないのだ。
ゆっくり歩くけーたの隣を、あたしは歩く。
明るい夏の夜。それがいつまでも続くわけないなんて、わかってる。
それでも、いまはまだ。
「あ、そうだ。花火の前に」
「なんだよ」
「タコ焼き食べるよ」
「……俺、お好み焼き食いたいんだけど」
きらめくような夏の夜。
いつまでも、続けばいい。
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