一頻り笑い終えたらしいおにいさんは、おもむろにダウンコートのポケットから煙草とライターを出して、吸いはじめた。あたしは横目でその様子を眺めた。
 体はとても細いのに、手はけっこうでかい。指が長い。爪は深爪なくらいすべて短く切ってあった。ゴツゴツしているのとはまた違う気がしたけれど、あたしの手とはまったく違う。
 その指先でギターの弦を弾く様を、ちょっと見てみたいと思った。

「……猫みてぇな目」

 おにいさんも、横目でこっちを見てきた。煙を吐き出すついでのように、何か呟いた声をあたしはよく聞き取れなかった。

「おまえ、うちくる?」
「え」

 今度はちゃんと聞き取れたけど、意味がわからなくてマヌケな声が出た。
 おにいさんが立ち上がった。ギターケースを背負って、歩き出す。その流れをぼやっと見送っていたら、背を向けたおにいさんが顔だけあたしに振り向いた。
 そして、

「なにしてんの」

 おいてくよ、と言った。

(なんで?)

 そう思いながら、まったく何もわからないのに、あたしの足は自然とおにいさんの後を追っていた。
 流れてくる煙草の煙にちょっと咽せそうになる。苦い煙のにおいに混じって、たぶん香水の、あたしの知らない甘いにおいがした。
 さむ、とあたしの前を歩くおにいさんがぼやく。それで、おにいさんに声をかけられるまで縮こまるほど寒かったことを、思い出した。

「おまえ、名前ミケとかでいい?」

 急に歩行速度を緩めてくれたかと思えば、あたしの顔を覗き込むようにしてそんなことを聞かれる。まったくよくない。

「やだよ。なんでミケなの」
「なんか三毛猫っぽいから」
「やだ」
「じゃあ、名前なに」

 じゃあって、なんだよ。
 睨むような目つきで、あたしはおにいさんを見上げた。

「海未。海に、未来の未で、海未」
「それ本名?」
「うん」
「ふうん……」

 興味も関心もないような声で、おにいさんが頷いた。
 煙草の灰がほろりと音もなく落ちた。かなりフィルターに近づいたそれを、気だるげにポケット灰皿にしまう指先。

「海未」

 おにいさんはあたしを見てはいなくて、ただ上を向いて白い息を意味なさげに吐き出していた。
 あたしはというと、名前を呼ばれて、意味もわからず泣きたくなった。じわ、と熱くなる涙腺。胸がぎゅっと苦しくなる。
 なんの取り柄もないあたしだけど、唯一、自分の名前は嫌いじゃなかった。
 そんなことを、なんとなく、思い出したのだ。

 お互い言葉もなく夜道を歩いていると、かすかな声が聞こえてきた。そっと隣を見上げてみる。おにいさんの唇が動いていた。
 あのときも、そして今も、声がたまらなくすきだと思った。
 ハミングを聴き終えたら、おにいさんの名前を聞こう。ポケットに入れたままのチョコレート菓子を、一つあげよう。
 そんなことを考えながら隣を歩いた。
 明日、空が晴れたら、青い海が見られるだろうか。


BGM:『センチメンタルジャーニー』、『ハミングバード』/YUKI



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