まず目についたのは、大きな黒いギターケースだった。
ベンチにもたれるようにして置かれてあるそのギターケースの傍らに、男の人がいた。
気だるげに足を組んで座るその人は、黒いダウンコートを着込んでかなり細身のジーンズを履いていた。年は、ハタチぐらいだろうか。あたしよりはきっと年上だろう。イヤホンをはめた右耳には、シルバーのピアスが三つもついている。
そろそろと、しかし確実に距離を詰めながら、あたしはその男の人の姿をまじまじと観察した。
横顔だし、おまけに彼の前髪が長いので表情がよくわからない。唇だけが小さく動いていて、ずっと歌を口ずさんでいる。イヤホンからはきっと『ハミングバード』が流れているのだろう。
こういうちょっとこわそうな雰囲気のおにいさんも、YUKIとか聴くんだ。ついそんな親近感を勝手に抱いた。
近づいたことでさっきよりもずっとよく聞こえる歌声は、甘くてほろ苦い。ビターチョコレートみたいな声だ、なんて思う。静かな歌い方なのに、声は潮風にのってどこまでも届いてゆきそうだった。
サビのところで、声がさらに甘くかすれる。
いいな、ずっと聴いていたい。
呼吸を忘れる。胸が静かに高鳴っている。
ああ、あたし、ドキドキしてる。
「――……」
と、ふいにおにいさんが顔を上げた。
あたしはすっかり歌声に聞き入ってしまっていたので、ほんとうに唐突だった。バッテリー切れでプツッと切れるように、おにいさんのハミングは終わってしまった。
最初こそ突然現れた(さっきから見ていたけども)あたしの存在をただ凝視していた目が、次第にいかにも不審そうな目つきになる。けれど、おにいさんは訝しい視線を寄越すだけで、あたしもあたしで言い訳も思いつかないし、おにいさんとあたしはしばし無言で見つめ合うことになる。
「……」
「……」
正直に「おにいさんの歌に聴き惚れてました」と言えばいいのだろうか。拍手でもする? 本気で手を打ちそうになっていたとき、おにいさんがベンチから立ち上がった。
重たそうなギターケースを慣れた動作で背負い、特に何か言うこともなく、おにいさんはあたしから背を向けてさっさと行ってしまった。
- 18 -
{ prev back next }