白く照らされた昼下がり、俺の筆の音と、ときどき風がカーテンをゆらす音だけがしている、静かな美術室。
しばらく筆をペタペタさせていると、かすかなハミングが俺の耳をくすぐった。そっとうしろを見やる。椅子に腰かけて、岡部がぼうっと窓から空を見上げている。唇をちいさく動かしながら。
見ていてもいいかって訊いたくせに、もう飽きたのか。退屈なら帰ればいいのに。
どこかで聞いたことがあるようなメロディーを、少しずれた調子で口ずさむ。風でゆれている長い髪。キャラメルみたいなきれいな色だ。
……かわいい、かもしれない。
(って、なに考えてるんだ、俺)
集中しろ、と自分を叱咤してキャンバスに向き直る。
それでもやっぱり少し、背中がくすぐったい。
学校が閉まってしまう前に作業を終えて、岡部と途中までいっしょに帰ることになった。
夕方の空はまだ明るく、ところどころ朱を混ぜたような薄青色をしている。
「海を見たいな」
学校を出てからいままで会話らしい会話もなかったのに、ふと岡部が口を開いた。
「……海?」
「うん、本物の海だよ」
「行ったことないの?」
「うん」
そうなんだ。めずしいと言えばそうかもしれないけれど、ここは海のない田舎町だ。見たことがなくてもそれも当然かもしれない。
海か、と思う。本物の海を最後に見たのはいつだったっけ。たしか俺が中学に上がるまでは家族で毎年海水浴場へ出かけていたけれど、高校生になったいまじゃさすがにそんな行事もなりを潜めていた。
岡部は、夢をみるような横顔だった。
「遠いかな」
「……本物の海?」
「うん」
「そんなに遠くはないと思うよ」
「そうかな」
「うん、行けるよ」
「そっか」
まるで空に浮かびそうなふわふわとした会話だった。岡部の言葉に相づちを打つばかりの俺は、正直なにを話していいのかわからなかったのだ。だって女の子とふたりで帰るのなんか、これがはじめてだったのだから。ただ並んで歩くことさえ、なんだかくすぐったい。
そんな俺をよそに、岡部はまた歌でも口ずさみそうな雰囲気だった。やっぱりマイペースである。
「……岡部、高校卒業したらさ、どうすんの?」
進路、と今度は俺のほうから訊いてみた。岡部が俺を見る。大きな焦げ茶色の目は、目尻がキュッと上がっていて、ほんとうに猫みたいだと思った。
「海を見にいくよ」
けろりと答える。あどけなく、笑って。
岡部が真面目なのかふざけているのか、俺にはとてもわからなかった。なのに気がつけば、そっか、なんてわかったふうに頷いていた。
「絵、見せてくれて、ありがとね」
じゃあね、と言って、岡部は俺に軽く手を振った。
なんとなく面食らってしまい、はっとしたあと、ワンテンポ遅れて俺も岡部に手を振った。けれど、視界の先にあるのはすでに小さくなっていく彼女の背中だった。
笑った顔、やっぱりかわいいと思う。
ほの甘いような夕暮れの風はかすかに夏の匂いがした。
いつか、夕暮れの海を描きたい。ふっと唐突に、そんな思いが俺の胸をよぎった。
あれから俺たちは、何事もなかったように高校を卒業した。
最後の文化祭の日、美術室に展示された俺の絵を見上げていたあの子の姿をよくおぼえている。小さな賞をひとつとってコンクールから返却された、夜明けの海。
――いろんな色があるんだね。
――いま、すきだなって思ったから。
あの子はどうしているのだろう。
俺はといえば、あの頃と変わらず、いまもキャンバスに向かっている。
「おーい成海ぃ、そろそろ昼飯行こうぜ〜」
「んんー、あ、あとちょっと……ここだけ、ここだけ塗らして」
「早く行かないとなくなるぞ! おまえの愛しの“カノジョ”のツナサンド!」
「っあああー! バカ、おまっ……へんなこと言うからずれただろーがあ〜!」
「俺先行ってよーっと〜」
おとなしくて、いつも教室の隅の席にぽつんと座っていた。キャラメル色の長い髪に、猫みたいな目をした、ちょっとマイペースな女の子。
あの子の近くで耳を澄ましてみると、よく歌を口ずさんでいたのが、ほんとうは聞こえていたんだ。
あの子は、卒業したら海を見にいくと言っていた。
海に、未来の未で、海未という名前の女の子だった。
- 119 -
{ prev back next }