同じクラスの岡部は、おとなしい女の子だ。いつも教室の隅の席にぽつんと座っている。話したことはなかった。

「絵、勝手に出してごめんね」
「い、いや、べつに大丈夫……。どうせ出すつもりだったから」

 背もたれのない木の椅子に腰かけた岡部が、画材の準備をする俺に謝った。
 はじめてちゃんと彼女の声を聞いた気がする。舌足らずで、なんだか頼りない話し方だ。

「……こ、ここでなにしてたの? 今日はもう下校だけど……」
「ごはん食べてから帰ろうと思って」
「あ、そうなんだ……」

 若干及び腰で訊ねてみれば、岡部はけろりとそう答えた。
 なんでここで俺の絵を見ていたのかを聞きたかったんだけど……。腑に落ちないような気持ちを抱きつつ、まあいいやと、俺は制服の上から作業用のエプロン(家庭科の授業で作ったやつ)をかけた。エプロンには絵の具汚れと油の匂いが染みついて、けっこう悲惨なことになっている。そろそろいい加減洗濯しなければ、また強めの後輩女子たちから「先輩臭いです」とか言われる、真顔で。

「……えっ、食べるって、ここで!?」

 突然、背後でガサガサ聞こえ出したのでびっくりして振り返ると、岡部が膝の上にのせたビニール袋から惣菜パンを取り出しているところだった。
 あ、購買のツナサンド。
 俺もそれ好き……って、そんなことはどうでもいい。

「だめなら、ほかの場所にいくよ」

 岡部の眉が八の字に垂れて、心なしか声色がさらに頼りなくなる。
 なんだろうか、これは。まるで俺が彼女に「出ていけ」と言っているかのような、そんなシチュエーションじゃないか。途端に罪悪感に駆られて変な汗が出てくる。

「ち、違くて……! ほらここ画材臭いし、それに俺これから油絵の具使うし、だからその、大丈夫なの? っていう意味で……」

 ここで岡部が食事をしたって俺はまったく気にしないし全然かまわないんだけど、だからといってわざわざ画材臭が染みついた美術室で食べなくても、と思ったのだ。ツナサンドがまずくならないか心配で。
 一応気遣って聞いたつもりなのだが、当の本人はきょとんとした顔で、

「うん。だいじょうぶだよ」

 と、答えた。
 あ、そうなんだ……。大丈夫なら、べつにいいんだけど。
 この短い時間で俺、めちゃくちゃ振り回されている気がする。ひとりで勝手にテンパっているだけかもしれないけれど、ともかく、岡部ってけっこうマイペースだ。

(……そういえば、岡部が友だちと仲よく喋ったりしてるところって、見たことないな)

 もしかしたら、学校に友だちがいないのかもしれない。
 でも、クラスメイトとして岡部がいじめられているのかと問われたら、そういうのとは違う気がする。岡部はなんというか、ふわっとしているのだ、存在が。気がついたらそこにいて、気がついたらいなくなっているような。
 なんだかそれって、猫みたいだ――。

「海の絵?」

 キャンバスを前に筆をさまよわせていたら、ふいにうしろから訊ねられた。

「えっ? あ、ああ、まあ、うん……」
「いろんな色があるんだね」
「……うん」

 つい、声が小さくなった。
 美術部ながら、自分の絵についてあれこれ聞かれたりするのは気恥しいのだ。
 それに――。

「……絵、すきなの?」

 首をひねってうしろを見やると、岡部の大きな目がまじまじと俺を見つめていた。
 ぱっと顔を前に戻してしまう。そして、いままで話したこともない女子とふたりっきりなのだというこの状況に気づかされてしまう。

「見るのは、すきだと思うよ」
「……思う?」

 曖昧な物言いが不思議で、おずおずと再び顔をそちらへ向けてみる。
 岡部は、俺ではなく、今度はキャンバスのほうをじっと見ていた。

「いま、すきだなって思ったから」

 ちっぽけなキャンバスに閉じこめた、夜明けの海。
 絵は、来月頭のコンクールに出品する予定だ。先生には「いいじゃないか」と言ってもらえたし、実際ほぼ出来上がってはいるものの、それでもあと少し、もう少しだけ、という気持ちがやまなくて、今日も色を重ねに来てしまった。
 さすがに今日で最後にする。あんまり重ねすぎても、きっとよくないから。

「見ていてもいい?」

 ツナサンドを食べ終えたらしい。岡部が訊ねた。

「……つまんないと思うけど」
「うん、いいよ」

 いいよって、いいのかよ。

「じゃあ、どうぞ」

 苦笑すると、岡部がうんと頷いた。そして、ちょっとだけ笑ってみせた。それを目の当たりにした俺は、またしても勢いよく顔を逸らしていた。

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