「秋吉岳」
さっき俺をフルネームで呼んだときの明るいトーンで、そいつは言った。
「秋吉でいいよ。がっくんでもいいけど、それはやっぱ女の子に呼んでほしいよね! なんつって〜」
「…………」
「ねえ、来栖って高校では帰宅部なの?」
またしても勢いに呑まれているような心地を感じながら、俺はぎこちなく頷く。
「偶然、俺も高校は帰宅部なんだ! そんじゃ今日このあと……あっ、唯太〜!」
言葉の途中でふと目を上げた秋吉が、教室のうしろの出入り口のほうへ向かって声をかけた。つられて俺もそちらへ目を向けると、教室に入ってきた男子がひとり、片手を振ってみせながらこちらへ近づいてくる。
天然なのかそうじゃないのか、波打つようなくせ毛の黒髪。猫背気味の長身のそいつは、やっぱり先日、クラス表を見ている俺のうしろで秋吉といっしょにいたやつだった。
「どしたの、遅かったじゃん。ウンコ?」
「いや違うけど、便所の帰りになんか知らない先生に資料運び頼まれちゃって。はー、長旅だったなあ。腰痛いし……」
「マジか、おつかれ〜」
「……あれ」
独特のゆるいテンポで話すそいつが、俺を見た。
「えーっと……来栖慧太くん、だっけ?」
思いついたように指をさして、それから軽く頭を下げた。
「ぼく、鈴木です」
「…………」
「唯太くん唯太くん、うちのクラス鈴木三人いるから。来栖、こっち唯太くんね。俺ら幼なじみなんだ。そんで唯太も中学バスケ部だったんだよ。こんなゆるい感じだけど、ディフェンス固いし。あと無駄にゲンコツ痛いから怒らせないほうがいいよ」
「いまのところ秋吉ぐらいにしかゲンコツしたことないけど。よろしくです」
「……よろしく」
よろしくだなんて口にしながら、いまいち状況が掴めないままでいる。
なんで、いつのまにか自己紹介のような流れになっているのか。このふたりは、なんでわざわざ俺と関わろうとしているのか。
「で。来栖、今日このあと暇?」
秋吉が、楽しみを待ちきれない子どものように口元をむずむずさせながら、提案する。
「1on1、相手してよ。知ってる? 裏庭にバスケットゴールあるんだ。ちょっとボロいけどね」
「……」
「次はぜったい俺がとるから!」
俺まだなんにも答えてないんだけど。
けれど秋吉は、俺の返事なんておかまいなしに勝手に話を進めて、鼻歌交じりに歩き出していた。つうか、さっき「気にしないで」とか俺に言っていたくせに、結局根に持ったままじゃん。
でも、嫌味を口にするどころかそんなふうに楽しそうにされたら、なんだか調子が狂う。
「慧太」
ふいに、物静かな低いトーンの声で呼ばれた自分の名前。驚いてそちらを見れば、唯太の少し眠たげな目とかち合った。
「来栖って苗字、ちょっと呼びづらいから、俺は慧太って名前で呼んでもいい?」
断る理由もなく、ややあって小さく頷く。
「……べつにいいけど」
「うん、じゃあ慧太で」
「なにー? なんの話?」
「俺が来栖って呼びづらいから、慧太って呼ぶことになった話」
「なに俺差し置いて親しく呼び合っちゃってんの!? それなら俺だって慧太って呼ぶわ! いいよねー、慧太!?」
「…………」
「やだって」
「なんでやねん!? いいわもう、勝手に呼ばせてもらいますからね!」
ロッカーから自前らしいバスケットボールを取り出して、秋吉が振り向きざまに屈託なく笑ってみせた。早々にボールをドリブルさせながら教室の外へ出ていく秋吉に、唯太も続く。
と、いまだ呆然と席に座りっぱなしでいる俺に唯太が不思議そうにして、いこうよ、と言った。まるで、ずっと友だちだったやつに向けるような、壁のない声で。
頭がぼうっとする。
気持ちが置いてけぼりを食らったまま、まだこの現実に全然ついていけていない。
「慧太、早くー!」
だけど、俺の足は急かされるままに教室を出ているし、ふたりのあとを追っている。
こんなに現実感がないのに、どうしてだろう、俺の前を歩くふたりの声も、表情も、鮮やかにはっきりと感じられる。
「いい天気だね」
ようやく追いついて並んだときに、投げかけられた唯太の言葉につられて、三人そろって視線を上げた。
開け放たれた廊下の窓の外、なんだかひさしぶりに見た気がする青空が、やたらにまぶしかった。
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