ページが風でパラパラとめくれる。
部屋の窓をずっと開けっ放しにしている。それが心地いい日だった。
差し込む陽がやわらかい春の午後。今日はバイトがないので、白いソファの上でのんびり雑誌を眺めていた。
表紙のなかで、有名なギタリストがクールな感じでギターを弾いている。音楽雑誌はけーたのやつだ。ときどき借りて眺めている。淡い光で撮られた写真がきれいだった。文章は、気が向いたら読むことにしている。
一度窓の外へやった目をまた誌面へ戻すけど、どこを見ていたのかすっかりわからなくなってしまった。てきとうにパラパラとめくったりする。
窓からは心地いい風がいたずらに入り込んでくる。風のにおいに、春、と思う。やわらかくて、青っぽいにおいだ。ハミングしたくなるような。
このあいだ切ったばかりの髪の毛先が首筋にふれてきて、くすぐったい。顔にかかる髪を耳にかけたとき、ドアが開く音が聞こえた。ふたりでいっしょに眠る部屋のドア。振り返ってみたら、やっぱりそこにいた。
「けーた、おはよ」
「……はよ」
そっけない返事が返ってくる。愛想のない顔で、けーたがドアの前に立っていた。
午前中に朝ごはんをいっしょに食べたあと、けーたは部屋に戻ってまた少し眠る。だから、あたしたちは「おはよう」を二回言う。今のは、二回目のおはようだった。
「けーた、これ、借りてるよ」
「ああ、うん」
「なんかおもしろい夢みた?」
「みてねえよ」
けーたは寝起きはたいがいそっけない(寝起きじゃなくてもそっけないのだけど)。でも、あたしはけーたが眠っていなかったことを知っている。
今日は、部屋からずっとギターの音がしていた。あと、歌を口ずさむ声がかすかに聴こえていた。
「けーた、今日バイト行く?」
「行くよ」
「夜?」
「夜」
相槌を打つように答えながら、けーたはキッチンのほうへ行く。
あたしは雑誌をローテーブルに置いて、ソファの上で膝を折って座った。キッチンから届いてくる水が流れる音や、冷蔵庫を開けたりする音に、じっと耳を澄ます。
同じベッドで眠るようになってから。ふたりぼっちみたいに抱きあうようになってから。ふとしたときに、キスをするようになってから。
前はほとんど聴こえることのなかったギターの音と、歌を口ずさむかすかな声が聴こえてくるようになった。それはあたしの見えない場所で、ないしょのことのように聴こえてくる。だからあたしは、いつもソファの上で膝を抱いて座りながら、じっと静かに耳を澄ましていた。
頬を膝につけて、目を閉じて、まるで胎児のようにじっと聴いていたら、胸の奥のほうからとてもいとおしい気持ちになってくる。
「――海未」
はっと目が覚めるように、目を開けた。
いつのまにかけーたが近くにいたから、少しどきっとする。
「けーた、なに?」
けーたはなにも言わない。あたしの隣に座って、薄茶色の目で見つめてくるだけ。
その目を見上げてなにかしらの応答を待っていると、やがて手が伸びてきて、あたしの髪をくしゃっとした。……よくわからない。
「海未」
手が離れて、けーたはもう一度あたしを呼んだ。あたしはうんと頷く。けーたを見ている。
「……あのさ」
「うん」
「聴いてほしいんだけど」
「うん」
聴いてほしいんだけど、と言って、けーたは、手にしていたギターを軽く持ち上げた。
それは、いつか見たギターとは違う、まるいかたちの赤いギターだった。
「聴いてて」
けーたは言った。そして、ギターを膝の上に。指先には小さなプラスチックのかけら。
“かけら”ではなく、ピックというのだと、このあいだ音楽雑誌をいっしょに眺めているときに聞いたのだった。それだけのことを思い出して、あたしは胸がきゅっとなった。
けーたがピックで弦を弾く。音が鳴って、あたしは一度だけ目を閉じた。
風がけーたとあたしの髪を同じようにゆらす。ハミングしたくなるような、春のにおいがする。胸が少しずつ高鳴っている。
ああ、と思う。
あたし、どきどきしている。
けーたが、すっと息を吸った。
十九歳の春。アパートの部屋のなか、白いソファの上。
今日のけーたの横顔を、あたしはきっと、ずっとおぼえている。
13.4.7 end.
(17.10.30 改稿)
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