空が色を変えはじめていた。
ずっと座ったままだったあたしは、ふと、歩きたくなった。ベンチから立って、けーたを見た。歩きたい、と子どものように言えば、けーたは一度瞼を伏せて、大人らしくゆっくりと立ち上がる。
ギターケースをそのまま置いていこうとするので、いいの、と訊いたら、いいよ、と言う。
「歩きたいから、ちょっとだけ置いてく」
あたしたちは歩き出した。
けーたは、相変わらずコートのポケットに手を入れて歩いた。速度がゆるいので、あたしはたやすく隣を歩けた。
不思議だった。
「けーた」
「なに?」
「あのね、前にも、こんなふうにいっしょに歩いた気がするよ」
このままどこまでもゆけるように、足元がふわふわとしていた。
もっと、どうしようもなくなるのだと思っていた。けーたにすきだと言ったら、逃げ出してしまいたくなるのだと思っていたのに。
いっしょに歩いている。あたしは、けーたの隣を歩いている。
少しずつ夜が明けていく。
なにも言わない。ただ夢を見ているように、海を見ていた。
ふと、気のせいみたいにちょっとだけ指先がふれたと思ったら、けーたの手があたしの手をつかまえた。あたしの冷えきった手に、体温が染み込んでいく。まざりあっていく。
けーた、手、ずっとポケットにしまっていたのに。
でも、だから、けーたの手はあたたかくて、とてもあたたかくて、あたしは泣きそうになった。
「海未」
海未。あたしの名前だ。
けーたの手が、そっとあたしの手を握る。
「ずっといっしょにいてほしいって言ったら、笑う?」
いつのまにか、海辺を歩く足はとまっていた。
あたしは、けーたを見上げた。けーたは横顔ではなく、あたしのことを見ていた。
夜明けの光で、けーたの髪も、目も、ピアスも、キラキラしていて、とてもきれいだった。
「……笑う」
どれだけ間を置いたのかわからないけれど、ずいぶん遅れてあたしはそう答えた。実際に笑っていたので、目の前のけーたがものすごく微妙な顔をする。それが余計におかしかった。
「……笑うなよ」
「だって、なんかシュールだよ。ふふふ」
「シュールって言うな」
苛立ったように声を荒らげるけれど、ちっともこわくなかった。
いつまでも笑っていると、けーたの手が伸びてきた。デコピンされるかな、と思ったのに、その手は、あたしの髪をくしゃっとした。
「……泣くなよ」
怒っていたはずのけーたは、困ったような顔をしていた。
いつもだったら、きっとむっとしたのに。けーたがそんな顔で髪をなでるから、あたしはもうむっとするのも、笑うこともできなくなってしまう。
胸が苦しくて、痛かった。でも、嫌じゃないんだ。
いたい。ねえ、いたいよ、けーた。
ぎゅっと目をつむったら、ぽろりと涙がこぼれた。
「……けーた、」
「……ん?」
「いいの?」
“いっしょにいたい”から、いっしょにいても、いいの。
「いいよ」
けーたが小さく笑った。それだけで、あたしは情けないほど泣けてしまうのだ。まるでちっぽけな子どもだった。
そっか。
なんだ、いいんだ。
あたし、けーたといっしょにいてもいいんだ。
けーたが泣きやまないあたしをぎゅっとする。けーたの胸に、あたしの涙が染み込む。煙草と香水の混ざったにおい。そのなかにある、けーたのにおい。あたしは、忘れなくてもいいのだ。
「すきだよ」
耳元でかすれた声が聞こえた。内緒話みたいだと思い、あたしはうんと頷いた。
少しだけ体が離れると、けーたは、あたしの顔を覗き込むように見る。薄茶色の目のなかにあたしがいる。
そっと目をつむったら、唇に一度だけふれた。
「……」
とても近い距離で目が合った。照れ隠しで、帰る? と訊いたら、なぜかけーたは声をあげて笑った。
その笑い方が、最初に会ったときみたいだと思った。あたしがポケットに入れっぱなしにしていたチョコレート菓子を「あとで食べる」と言ったときの。
けーた、笑うと子どもだね。
「帰るか」
けーたが言うので、あたしは頷く。
どちらともなく手をつないだ。お互いの指が絡むつなぎ方が、少しくすぐったい。
あたしたちは、来た道をまた戻る。
ベンチにはけーたのギターが待っている。まぶしい場所で見た、あの尖ったかたちの黒いギター。
「けーた」
「なに」
「ギター、聴きたいよ」
「……帰ったらな」
照れたような横顔を見上げながら、あたしは笑った。
目を細めたら、キラキラとまぶしい夜明けの海が滲んでみえた。
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