「猫がいたんだ」

 しばらくぶりに隣を見上げた。横顔のけーたの、その視線は遠かった。

「ガキの頃、実家の庭にいたんだ。茶色の、まだら模様の野良猫。兄貴が食べものやってからよく来るようになって、それで……仕方ないから、俺もたまに頭なでたりしてた」

 ぽつぽつと、ひとりごとのようにけーたが話す。記憶をひとつひとつ思い出しているのかもしれない。あたしはじっと黙っていた。

「夕方の庭で、窓からこっち見て俺を呼ぶみたいに鳴いてた。それが嫌いじゃなかった。飼えたらよかったのかもしれないけど、母親が、なんかアレルギー持ってたから……。まあ、そんなのなくても飼わなかったかもしれないけど……。猫、いつのまにか来なくなったんだ。野良だし、当たり前なんだろうけど、でも、なんか……今でもたまに、思い出す」

 十年以上前のことなのにな、と最後に言って、けーたは黙った。
 その話はけーたにとってつらいことなのか、それともよかったことなのか、あたしにはわからないから、あたしはなにも言わなかった。
 けーたの話を聞いて、あたしはあの猫のことを思い出した。
 あいつは、猫というよりもけものだったな、とぼんやり思う。

「……ちょっと、おまえに似てた」

 そう言って、けーたがあたしを見た。いたずらな雰囲気で少しだけ笑っていた。笑い方は似ていないのに、どうしてかその顔はおにいさんを思い出させた。
 あたしはまたうつむいた。地面に、スニーカーの爪先で意味のない文字を描く。
 胸が苦しくて、痛い。この気持ちをなんと言えばいいのだろう。

「……けーた」

 鏡にうつった赤が脳裏をよぎる。
 首輪のような首筋の赤い痕。じんと痛んだ、けものの痕。

「あのね、あたし、猫じゃないよ」

 知らないかもしれないけど、と最後に付け加えた。
 けーたはなにも言わない。でもあたしを見ている。あたしはうつむいたまま、けーたを見られない。
 やがて、けーたの目が、ゆっくりとあたしから海のほうへ向いたのがわかった。

「知ってるよ」

 ふっとやわらかく、空気がゆれた。
 知ってるよ。たった一言、けーたはそう言った。そんなの、とでも言わん雰囲気だった。
 知ってるよ。その言葉を隣で聞いたあたしは、なんだかとても、とても力が抜けてしまった。

(ああ、なんだ)

 なんだ。けーた、知ってたんだ。そっか。なんだ……。
 あたしのなかにあった頑なななにかが、しゅるしゅると、やさしくほどけていくような気がした。そして、それがきっかけみたいに、胸の底のほうからじんわりと込み上げてくるもの。

「けーた」

 名前を呼びたい。そばにいたい。
 いとおしくてかけがえのない、たったひとつのその気持ちを、あたしは口にする。

「あたし、けーたがすき」

 まっすぐ目を見て言うのが正解なのだとしたら、あたしはまた間違ってしまったのかな。
 視線の先の暗い海。あたしの知らない遥か彼方の遠い場所から、光が滲み出す。
 もうすぐ、夜が明けるのだ。

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