静かに更けていく夜だった。アスファルトには、影がふたつ。
 あたしは、けーたの少しうしろを歩いた。背中の重そうなギターケース、夜風でなびく髪を見ながら。
 ふと、潮のにおいが鼻先をかすめて、顔を上げた。
 てっきりアパートに帰るのだと思っていたら、視線の先には夜の海があった。鼓膜をくすぐるようなさざ波の音がする、海。

「……寒い?」

 けーたが訊ねた。あたしは首を横に振る。

「だいじょうぶ」

 冷たい潮風が頬をなでていく。臨海公園には、あたしたち以外誰もいない。
 街灯の明かりの下で、けーたがベンチの横にギターケースを立てかけた。それからベンチに座ったのを見て、あたしも同じように隣に座った。
 目の前の海は、三月のあの日、ひとりで見ていた海と同じ色をしていた。だけど、今はあのときのようにこわいとは思わない。むなしさにつぶれてしまいそうな気持ちにはならない。

「……たまに、」

 隣へ目をやる。けーたは横顔だった。手をダウンコートのポケットに入れたまま座り、海を見ているようだった。

「たまに、ここに来るんだよ。なにも用事がない日とか……なにも、考えたくないときとか」
「……うん」
「猫拾うとは思わなかったけど」

 と言った声は、少し笑っていた。
 あたしは頷くことはしないで、うつむいた。履きすぎて変色したスニーカーが視界に入る。右足のヒモがほどけてしまいそうだった。

「……けーた」

 なんとなく顔を上げられないまま、けーたを呼んだ。けーたがあたしを横目に見るような気配を感じる。

「けーた、たまには実家に連絡したほうがいいよ」
「……兄貴がそう言った?」
「うん」

 頷くと、なんとも言えないため息が聞こえてきた。
 やっぱり、こないだおにいさんが来たことは、けーたは気づいているらしい。

「けーたと似てないね」
「知ってる」
「けーたのこと、よろしくねって言われたよ」
「……」

 ふてくされたように沈黙するけーたがおかしかった。
 おにいさんといるときのけーたは、きっと今みたいにしているのだと思った。ふてくされて、まるで拗ねた子どもみたいな。
 あたしの知らなかったけーたを知れたようでうれしかった。でも、同じくらい胸が苦しくなる。けーたを知ることは、うれしいけど、少しこわい。意味のある沈黙とか、笑い方とか、ふれ方だとか、そういうものがぜんぶがあたしのなかに染み込んで、もうずっと、あたしはけーたを忘れられなくなる。

「けーた」

 ちゃんと隣を見ればいいのに、それがなんだかうまくできない。
 あたしはひとつだけ息を吸い込んで、あのね、と続けた。

「あのね、あたし、十九歳なんだよ。まだ未成年だけど……でも、ビールも飲もうと思えば飲めるんだよ」

 けーた、知らなかったでしょ?
 あたしは訊いたけれど、やっぱりけーたを見ることができない。なんでかな。仕方がないから、あたしは夜の海を見ることにした。
 けーたはなにも答えない。でも、聞いてくれているのだと感じて、だからあたしは話すことにした。

「けーた、あのね、ここに来る前はあたし、お母さんと暮らしてたんだ。お父さんはあたしが生まれてすぐ死んじゃったから。住んでたとこ、超ボロアパートだよ。部屋は二階だったんだけどね、階段がギシギシうるさいから、ずっと嫌いだった」

 話しながら、あたしは少し驚いていた。これは一生誰にも口にすることなんかない話だと思っていたから。それに、話したら、きっと嫌な気持ちになるのだと思っていた。あたしはまた、自分のことを嫌いでたまらなくなるのだと思っていた。でも、あたしはいま、あたしのことを話している。嫌な気持ちにはならない。大丈夫だ。

「お母さんと仲は悪くなかったけど、あたしが中学に上がってからかな。お母さん、あんまり家に帰ってこなくなったよ」

 お母さんのことは、嫌いじゃない。不思議なくらい、記憶に残っているのはいい思い出ばかりだった。ぜんぶあたしが小さい頃の記憶。近所の公園、夏祭り、動物園……。
 たぶん、思い出は美化されているのだと思う。ああよかったな、楽しかったな、と過去をちゃんと“思い出”にできるように。
 お母さんのこと、嫌いじゃなかった。
 だけど、お母さんを待ってる時間は、嫌いだった。

「狭いアパートの部屋でね、ひとりでいるのが嫌いだった。あたしシチューとか作って待ってるんだけど、お玉でシチューかき回しながら、あたし、自分がばかみたいだった」

 今日は帰ってくるかな。そうかな。そんなふうにひとりで待っているのがとてもばかみたいで、惨めだった。
 お母さんにすきなひとがいたのは、なんとなくわかっていた。
 その人よりもあたしを選んでほしいわけではなかったけれど――ほんとうは、選んでほしかった。でも、違う。違うのだ。選んでほしいとか、あたしがほしかったものは、そういうものではなかった。

 お母さんがぱたりと帰ってこなくなった、十八歳の三月。
 「お母さんはもう帰ってこない」、「荷物をまとめて家に来なさい」と、顔も名前も知らない“親戚”と名のる人から電話をもらった。
 そのとき、あたしは思った。
 お母さんは、きっと居場所を見つけたのだ。

 ボストンバッグひとつ。制服を脱いで、あたたかいモッズコートに歩きやすいスニーカー。少しのバイト代に、お気に入りの曲が詰まった音楽プレーヤーをポケットに入れて、あたしは家を出た。
 行き先は海の見える場所がいい。
 イヤホンをはめて、現実から逃げ出すように歌を口ずさんだら、どこへでもゆける気がしたのだ。
 いま、視界の先の海は、夜空よりも色濃く、闇のように暗かった。潮風が頬や手や指先を凍てつかせ、おまけに髪をバサバサにする。すべてを知っているような、波の音が聴こえる。
 果てしなく遠い場所にあると思っていた景色。
 ずっと写真で見て焦がれていた景色とは違った。もっと透き通るような青で、宝石のようにキラキラとまぶしくて、訪れたらなにもかも救われるような場所だと、ずっと、夢みていた。

「けーた、あのね」

 あたしは、帰る場所がほしかった。
 あたしがそこにいてもいい場所がほしかった。

「あたし、けーたの声がすきだよ」

 誰かに名前を呼んでほしかった。いとおしい気持ちで、誰かの名前を呼んでみたかった。

「はじめて会ったとき、けーたがここで歌ってたの、あたし、ずっとおぼえてるよ。忘れないよ」

 けーた、あたしね、けーたの声がすきだよ。けーたのギターもすきだよ。ピアスも、煙草と香水のやさしくないにおいも、すきだよ。けーたの目の色がすきだよ。冷たい体温がすきだよ。ちょっと乱暴に、髪をくしゃってされるのもすきだよ。でも、デコピンはいやだよ。
 けーた、あのね。

「あたしの名前、呼んでくれてありがとね」

 あたしは今までなにひとつも正しくなかったのかもしれない。今だって間違っているのかもしれない。
 ずっと夢みていた場所とは違った。
 でも、よかった。
 あたしは、ここに来てよかった。

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