あの頃、猫がいた。

 お母さんとふたりで住んでいたボロアパートの裏手には、銀杏の木があった。
 学校から帰ってそこへ顔を出してみると、木陰から猫が一匹、ひょっこりと姿を見せた。トラ柄の老猫。脚が太くって、なんだか野性的で、かっこよかった。
 あたしはあの猫に名前をつけなかった。トラ猫、とそのまま呼んでいた。
 彼は、あたしを見るといつも少し低めのかすれた声で鳴いた。あたしはそれがとてもうれしかった。こっそり鞄に入れた給食の残りを、彼にあげた。
 
 高校生になっても、彼はあたしのそばにいてくれた。ろくに友だちもおらずいつもひとりでいたあたしを、自分の子分のように思っていたのかもしれない。
 あたしは、その日にあった出来事とか、空模様とか、他愛のない話を思うままに彼にした。彼は聞いているのかいないのか知らないけれど、ときどき、ふんと鼻を鳴らした。とてもえらそうに。

 高校卒業を控えてまもなく、彼はふっと姿を見せなくなった。

 ねえ、海を見たことある?
 あたしね、まだ一回もないんだよ。自分の名前なのに、一回もないんだよ。
 ねえ、いつか見にいけるかな。あたしでもいけるかな。そうかな。

 いつか彼にした他愛のない話をあたしは思い出した。
 あのとき彼は鳴いたのだ。かすれた声で、あたしに鳴いた。

 ゆけるさ、なんてことねえよ。

 そんなふうに言われた気がして、あたしはうんと頷いた。ばかみたいな錯覚かもしれなかったけれど、それでもよかったのだ。

 十八歳の、真冬のある日。アパートの裏手、銀杏の木陰。
 彼は、最期にこの場所へ帰ってきた。

「おかえり」

 地面に横たわって眠る彼のそばで、あたしは言った。

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