(……帰ろう)

 あのアパートまで、ゆっくり歩いて帰ろう。
 もう帰ってきてるかな。まだ帰っていなくても、朝になればきっと帰ってくる。帰ってきたら一番に、おかえりと言おう。
 あたしはコートのポケットに手を入れて、歩き出した。上を向いて、いたずらに吐き出した白い息が空でくゆり、やがてとけていくのをぼんやりと見ながら。

「にゃん」

 コンビニの前の角を曲がろうとしたときだった。

「……ゴマさん?」

 鳴き声が聞こえた。少しかすれた、外で生きる猫の声。憎たらしいけれど憎めない、あいつの声だ。

「ゴマさん、どこ?」

 あたしは勝手につけた猫の名前を呼んだ。思わず小走りになって、目の前の角を曲がる。

「にゃん」

 夜闇のなかで光る目があたしを見た。遅いぞ、とでも言うふうに。
 角を曲がってすぐ、歩道の隅に、白黒のぶち模様の猫がいた。もともと大きかったその体は、なんだかさらに大きくなっているような気がした。冬毛なのか、それとも、どこかで誰かに美味しいごはんをもらっていたのかもしれない。
 猫は人を見分ける目をもっている。自分にやさしい人を、見分ける目を。
 ふかふかの毛並みを、大きな手がなでた。細い体のわりに、大きな手。指が長くて、その指が猫の顎のところをくすぐる。気持ちよさげに目を細めた猫がゴロゴロ喉を鳴らす音が聞こえてくる。

「……ゴマっていうの?」

 横顔が言う。あたしに訊いたのか、それとも猫に訊いたのか、わからない。
 相変わらず愛想のない横顔で、そんなふうにやさしく猫をなでたりするのがなんだかシュールだな、と思った。

「来んの、遅いんだけど」

 それ、あたしに言ったの?
 あたしはただただ立ち尽くしていた。足がうまく動かない。そばにいっていいのか、わからない。
 遅いって、そんなの知らないよ。こんなところにいるなんて知らなかったんだから。

「……なんで、いるの?」

 けーた。
 やっとのことで、喉の奥から絞り出すように名前を呼んだ。
 けーたは、相変わらず横顔で、歩道の隅にしゃがんだままこっちを見ない。ねえ、いまあたし、呼んだんだよ。聞こえてないの?
 けーたがなにも言わないから、あたしはどうしたらいいのかわからない。胸がじんじんと痛かった。息が詰まって、苦しかった。
 ねえ、あたし、そばにいきたいよ。

「けーた」

 けーたが立ち上がったとき、猫が鳴いた。もしかしたら、じゃあな、と言ったのかもしれない。猫は一度だけあたしを見やり、しっぽをゆらゆらさせながら夜闇のなかへと消えていった。
 車道を過ぎていく車の音がけーたの足音をかき消す。ヘッドライトが左耳のピアスを流星のようにキラリとさせた。
 あたしに、ふっと影が落ちる。

「……海未」

 けーたがあたしを呼んだ声は、あたしの声よりもずっと小さくて、かすれていた。
 けーたがいる。
 薄茶色の目が、あたしを見ている。

「あのさ」
「……うん」
「聞いてほしいことがある」
「うん」

 内緒話のようなけーたの言葉に頷いたあと、あたしも口を開いた。

「あたしも、けーたに聞いてほしいことがあるよ」

 けーたはあたしを見て、頷いた。

 あたしたちの夜は続いている。
 まだ当分明ける気配のない深い藍色の空に、大丈夫、と思う。冬の夜は長い。だからきっと、焦らなくても大丈夫だ。
 胸が高鳴っていた。
 はじめてけーたのハミングを聴いた、あの日みたいに。

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