「うわっ、寒い」
裏口の扉を開けて、日向くんが悲鳴をあげた。
外は、小春日和だった日中とはうって変わって、真冬らしい風が吹いていた。日向くんに続いて外に出たあたしも思わずぶるりと体を震わせて、肩を縮こめる。
「せっかく春かと思ったのに……」
「冬に戻っちゃったね」
「岡部さん、大丈夫ですか? 病み上がりなのに」
「うん、今日はあったかくしてきたから大丈夫だよ」
コートにすっぽり体を包まれて、あたしは少し誇らしげな気持ちで答えた。日向くんが、それならよかった、とほほえむ。
夜十時過ぎ。店の明かりに照らされた駐車場をゆるりと見渡してみる。
いつもこの場所に来ると、白黒のぶち模様の猫が姿を見せた。あたしはいつも、まるでそいつの子分のようにふかふかの毛をなでさせられていたのに。
「ゴマさん、来ないですね」
どうやら同じことを考えていたらしい。日向くんの言葉に、あたしは頷く。
「猫集会かな。そうかな」
「あはは、そうかもしれないですね」
「昨日は来てた? ゴマさん」
猫を探していた目を、日向くんへ向ける。
「……よかった」
日向くんは、あたしを見ながら小さく笑っていた。儚くも見える笑顔を浮かべながら、また岡部さんと話せてよかった、とかすかな声で言う。
「俺、もう岡部さんと話せなくなるんじゃないかって思ってた」
「……うん」
「できること全部しようと思った。まだなんにも終わってないって、大丈夫だって、自分に言い聞かせて。でも、なんか……なんでかな、岡部さんが熱出したの俺のせいかな、とか、もうこのまま会えなくなるんじゃないかって……勝手にすごい不安になっちゃって」
カッコわる、と言って、日向くんは眉を下げた。泣きそうな顔で笑う彼を見て、あたしはほんのわずか驚いた。
あたしは、すぐに首を横に振った。
「カッコわるくないよ」
いつもあたしのことを気にかけてくれて、やさしいまなざしで見ていてくれて、あたしの言葉に、とてもうれしそうに笑ってくれた。
カッコわるくなんかない。日向くんは、きっと知らないのだ。今まであたしがどれだけ日向くんに助けられたか。どれだけ、救われたか。
「日向くん……あのね、あたし、日向くんと話したい」
いつもまっすぐあたしに向き合ってくれた彼に、はじめて正面から向かい合うような気持ちで、あたしは日向くんの目を見つめた。
「あたしね、日向くんにたくさん嘘ついてるんだ」
日向くんは笑っていなくて、静かに黙ってあたしを見ている。聞いてくれている。だからあたしは安心して、すっと息を吸った。体の奥から澄んでいくような、冷たい冬の夜のにおいがした。
「日向くん、前に『ひとり暮らしって大変ですね』って言ってくれたこと、あったよね。でも、ほんとは違うんだ。あたしなんかひとりじゃなんにもできないの。家事もほとんどしてないし、バイトがなければずっと寝てるだけだし、バイトはじめる前なんか、ただのニートだったんだよ」
ちっぽけな自分のことを話していると、喉が引きつるように痛くなってくる。どんどん目の奥が熱くなっていく。
情けない自分のことを誰かに話すのはとても恥ずかしくて、泣きたい気持ちだった。でも日向くんには話さないと、と思った。
軽蔑されてもいい。嫌いになってくれても――ほんとうはいやだけど、でも、それでもいいから。
「あたしね、家出したの。それで、どこにも行くとこなんかなくて、ひとりぼっちで……」
あのとき、あたしは後悔した。寒空の下、ひとりぼっちのベンチの上で。
もっと頭が良ければよかった。音楽ばっかり聴いてないで、もっとちゃんと真面目にしていればよかった。人見知りなんかしない性格で、明るくて、友だちがたくさんできるような女の子だったらよかった。お父さんがいたらよかった。お母さんに、「家に帰ってきて」と言えばよかった。猫を飼えるような家だったらよかった。
そんなたくさんの後悔にもならない後悔をして、あたしなんか、海にとけて消えてしまいたかった。
あたしは、あたしなんか、大嫌いだった。
「……日向くん、あたし、前に日向くんにすきなひとのこと聞かれたとき、嘘ついたよ」
――すきな人も、いないんですか?
あたしは、いないよ、と答えた。
自分の気持ちに気づきたくなかった。気づくのがこわかった。自分の変化を認めることが、こわくてたまらなかったのだ。
だけど――あのとき、かなしかった。
たしかに在る心をほんとうは否定したくなかった。あのとき言えなかった心を、いまならちゃんと言葉にできる。
ばかみたいだって、そう思ってくれてもいいよ。あたしもそう思っているから。
「あたしね、拾われたの。ひとり暮らしじゃないけど、でも、ふたりじゃない。あたしのこと、きっと猫みたいに思ってるから」
名前はミケでいいかと聞かれた。理由を聞いたら、三毛猫に似ているからだと、しれっと言われた。あたしはむっとして、自分の名前を言った。
――海未。
興味も関心も、そんなものはなにひとつもない声であたしの名前を呼んだ。その横顔を見ていた。吐き出された白い息が、空にとけていく。それはとけてなくなったけれど、でも、たったひとつのその声が、あたしのなかで余韻のようにいつまでもそこにあった。空っぽだった心を満たしていくように。
あたしは、思い出した。
あたしはなにひとつ取り柄がない自分なんて大嫌いだったし、消えてしまいたいと思っていたけれど、それでも、自分の名前だけは、嫌いじゃなかったこと。
「日向くん、あたしね」
後悔が全部なくなったわけじゃない。それでも、よかったと思えた。
「あたし、すきな人がいる」
きっとあのとき、あたしははじめて誰かをすきになったのだ。
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