ねえ、聞いてほしいことがあるんだよ。聞きたいこともあるよ。
◇
春がきたのかと思った。
今日はとてもあたたかくて、コートを着て部屋を出たら、びっくりした。寝込んでいるうちに季節が変わってしまったのかと、ちょっと不安になって、そして胸がどきどきした。
コートのポケットに手を入れて、線路沿いの道を歩く。一歩一歩、たしかめるように。
ゴウゴウと力強い音を立てながら電車がやってきて、足を止めた。風で乱される髪を直しもせずに、あたしは立ち尽くす。自分の横をものすごい速度で走り抜けてゆくまばゆい光景に目を奪われた。
電車の窓から見えた、若い男女。ひとつのイヤホンを分けあって、笑っている。ふたりで大好きな音楽を聴いているのだろう。
一瞬の時間が過ぎ去る。辺りが静かになって、あたしは思い出したように歩みを再開させた。ぼさぼさになった髪をそれとなく直しながら。
春のような陽だまりのなかで、このコート、今日は暑かったかな、と思う。
買ってもらってもう五年が経つモッズコート。丈が長めなのと、頭の後ろでゆれるフードにファーがついているのがお気に入りだった。それは五年経った今も変らずに、久しぶりにこのコートに袖を通したあたしの心は、とてもしっくりときたのだ。
あとどれくらい着られるだろう。着られなくなってしまうまで、大事にしよう。ひっそりと、そんなふうに思う。
「……、……」
ポケットに手を入れながら小さく口を動かしてみる。うろ覚えの歌詞。ポケットの中に音楽プレーヤーはないけれど、記憶を頼りにハミングする。
頭のなかで再生されるのは、あの日の声。
また、聴きたいな。聴かせてくれるかな。そのときは途中でやめないでほしい。最後まで、ちゃんと聴きたいから。
(……そう言ったら、どんな顔するのかな)
まっすぐ続く線路沿いの道を、ハミングしながらあたしは歩いた。
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