信号が青になる。一斉に動き出した人波の中を歩き出す。
 背負ったギターケースが重く、気だるいけれど、不思議と悪くないと思える。いつもは気が滅入るだけのノイズの中を、それでも歩こうと思える。嘘みたいに胸がすいていた。
 マユコが、がんばってくださいね、と言う。

「あたし、陰ながら応援してるんで。慧太センパイ」
「その呼び方やめて」
「えー、これが一番しっくりくるのに」

 視線を少し下げてみる。彼女の背中にも、ギターケースがあった。背丈の違いか、俺のものよりずいぶん重そうに見えるけれど、不恰好ではない。けっこう似合っていると思う。たぶん。

「そっちも、がんばれ」

 とても意外そうに俺を見上げたマユコの顔は、すぐにうれしそうな笑顔に変わった。

「なーんか、むかつく」

 はにかみながら、それとは裏腹なことを言う。

「慧太さんがやさしいのって、なんかちょーむかつく」
「なんでだよ、応援してやってんのに」
「うわ、めっちゃ上からだし」

 言い合いながら駅へと向かう。てっきりついてくると思っていたマユコは、駅前に近づいた歩道の途中で足を止めた。ブーツの音が消えたことに気づいて、ゆるりと振り返り、駅へ行かないのかを目で訊ねた。

「これからスタジオなんで、ここで」

 と言って、マユコは静かな目をして俺を見据える。

「……慧太さん」
「なに?」
「あたし、春になったら上京するんです。相方が東京行くんで、まあ、いっしょに」
「……それ、俺に言ってどうすんの?」

 風が吹いて、視線の先の髪がゆれた。ダークトーンの髪色に映える前髪のピンクハイライト。秋のはじめにはなかったそれは、いまの彼女によく似合っていた。
 マユコが、やっぱむかつく、なんて悪態を吐きながら屈託なく笑う。
 軽薄に見えた笑い方で、ほんとうは何を考えていたのだろう。そんなものは俺にわかるわけもないけれど。

「慧太さんなんか、飼い猫に利き指噛まれればいーのに」
「……」
「なんつって。ふふ、それじゃ、元気で」

 返す言葉も待たないまま、マユコはくるっと俺から背を向けた。
 厚底ブーツがアスファルトを鳴らす音と、やたら重そうなギターケースを背負ううしろ姿があっけなく人波に紛れて、やがて街の中にとけて消えた。

 小春日和だろうが冬の夜は早い。今までまぶしいと感じていた空は、シーンが切り替わったかのようにすでに色を変えていた。春を錯覚するようだった風も、今はもう真冬のそれだ。
 帰宅ラッシュの時間帯が近づいて、駅へと向かう歩行者が増えてきた。
 ギターケースを背負い直し、ノイズが溢れた雑踏を再び歩き出す。北風から逃れるように手をコートのポケットに仕舞い込んだまま。
 利き手とは逆の手。離れてもずっと残っている感触や、温度の余韻。それらをたしかめるように少しだけ握った。
 いっしょにいて一年が経とうとしているのに、手をつないだこともなかった。けーた、と舌足らずに俺を呼ぶ女の子。俺のおさがりの服を着て、ソファの上でまるくなって眠った。朝飯をいっしょに食べてやるとうれしそうにしていた。猫みたいな目で、何かを訴えかけるように、じっと俺のことを見ていた。
 なんにも気がつかないまま、馬鹿みたいにぬるま湯のような生活を続けていられたら、それでよかったのに。いつのまにか、後悔だけが増えていた。

 ぶっ倒れて寝込んでいたくせに、昼を待たずにけろっとバイトへ出かけていった姿を思い出す。
 バイト、何時に終わるのだろう。夜までだったらだいぶ待つことになるけど、いいか、べつに。
 知らないことはたくさんある。完全にわかりあえるなんて思っていない。それでも、聞きたいことも、聞いてほしいこともある。
 ちゃんと目を見て、名前を呼びたい。

(……なんて言ったら、笑うかな)

 後悔していないことがひとつだけある。
 二十一歳の春、あの日、あの場所に取り残されたように座っていた、猫みたいな女の子を拾ったこと。

- 102 -

prev back next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -