楽しいと思ったことは一度もなかった。
 それでも、失したくない自分の一部だった。


 ◇


 いつ訪れても人口密度の高い街の中。背負ったギターケースの重さを気だるく感じながら、人波の一部となって歩く。
 晴天の陽射しがあたたかい。こうして動き続けていると汗ばむほどに。今日の最高気温十五度らしいよ、とすれ違った通行人の話す声が耳に届いた。先日降った雪が道の端々に残っているが、今日の季節外れのあたたかさですべて溶けるだろうか。

「慧太さん!」

 ふいに高い声で名前を呼ばれて、足を止めた。どこにでもいるような女の声には、だけど聞き覚えがあった。
 振り向くと、ダークトーンのショートヘアをさらさら揺らしながら小走りで近づいてくる女と目が合った。濃い化粧の顔には、愛嬌のある笑みがのせられている。
 俺の前に立つと、ひさしぶり、と女が言う。

「慧太さん、あたしのことおぼえてます?」

 含みのある言い方に、小さく笑う。

「マユコだっけ」
「えー、おぼえてるんだ!」

 グレーのカラーコンタクトが入った目を大袈裟にまるめて、素で驚いたような表情を浮かべる彼女に苦笑したくなる。

「おぼえてるよ」

 俺を黙って見つめていたマユコの顔がふふっとほころぶ。おぼえていると口にしたけれど、こんなふうに笑う女だったっけ、と記憶の中の彼女とつい比べてしまった。
 マユコと最後に会ったのは、たしか秋のはじめだった。バイト先の常連客のひとり。よく笑い、高い声で跳ねるように喋る、どこにでもいるような女というだけの印象だった。だからいま、こんなふうに街中で出くわしても彼女のことを思い出せるとは、正直なところ思っていなかった。

 歩道を歩き出すと、マユコは俺の横に並んでついてくる。厚底のブーツがアスファルトを踏むたびにゴツゴツと重々しく鳴り響く。

「なんか、また変わった」

 独り言のように吐き出された言葉。目を向けると、マユコも俺を見ていた。

「なにが」
「慧太さん、前に会ったときよりも、なんかさらに雰囲気変わりましたね」
「あっそう」
「ふふ。でも、そういう感じは相変わらずっすね」

 変わったとか相変わらずとか、人のことを楽しそうに観察しながら具体的なことは何も言わない。

「……慧太さん」

 聞き流す程度に聞いていると、ふとマユコの声のトーンが少しだけ変わった。

「バンド、辞めちゃったんですね」

 信号待ちのため、横断歩道の手前で足を止める。

「あたしの知り合いの女たちが、もっのすごいがっかりしちゃってますよ。『ギターの人が辞めちゃったら、もうあのバンドのライブ行く意味なーい』って」
「……いんじゃないのべつに。今までどーもありがとうございましたっつといて」
「あははっ、その棒読みまんま伝えとく!」

 行き交う車の音、少し遠くのクラクション、ケータイで話すやけに張った女の声、信号待ちに苛立つサラリーマンが靴の踵を鳴らす音。
 街の中にはノイズが溢れている。音楽プレーヤーは常に持ち歩いているし、耳を塞ぐことは簡単なはずのに、どうしてかいまはそれを選択しようとは思わない。

「……バンド辞めたって、ギター弾くの辞めるわけじゃないよ」

 耳を塞いで、なんにも気がつかないふりをしながら生きていくのだろうとずっと思っていた。確信に似た気持ちで。
 だから穴埋めだろうが、理由なんてどうでもよかった。
 もともとはバイト先の客だった。彼らが所属するバンドの話やライブの愚痴を聞いていた流れで、ついギターが弾けることをこぼしてしまった。

「ちょうどよかった。ギターのやつが怪我しちゃってさ、治るまでの期間限定でいいから穴埋めしてくんない? お兄さんかっこいいから女の子の客いっぱい呼べそうだし、テキトーに鳴らしてくれればかまわないからさ」

 そんな酒臭い依頼を引き受けたのは、単純に観客の前でギターを弾いてみたいと思ったからだった。ずっと独りよがりだったギターを、舞台の上で“誰か”に向けて弾いてみたい。そう思ったから。
 それからおよそ二年、弾き続けた。限定だったはずの期間はいつのまにかなくなっていた。
 二年やっていてもバンドメンバーとの付き合いは表面上だけで、けれど煩わしさはなくてラクだった。練習なんてほとんどしない。もともと耳には自信があったけれど、メジャーバンドの焼直しのような曲は一度聴きさえすれば弾くのに苦労はなかった。たまに連絡が入ってスタジオで適当に合わせて、そんな体たらくでもライブをやれば客は入る。
 不満という言葉自体忘れてしまったかのようだった。そんな思いはひとつもなかったはずなのに、精神をすり減らすように弦を鳴らし続けて、いつのまにか胸の奥はからっぽになっていた。
 自分のためではない、まして誰のためでもない音は不協和音のように歪な響きだった。それでも、今更辞める理由もべつにないからと、何も感じていないふうを装って悪あがきのように弾き続けた。舞台上で、堪えるようにずっと唇を噛みながら。ピックを持つ指先が、ほんとうはずっと痛かったのに。

「自分の曲、ちゃんとやりたいって思ったんだ」

 ふっと我に返ったように、辞めることを決めた。ずっと忘れていた音を思い出した、自分の曲を聴いてほしいと心の底から思った、星のみえない夜に。
 バンドを辞めてもギターを弾くことを辞めるわけじゃない。むしろ、逆だ。耳を塞いで、逃げて、散々後悔して、ようやく自分の心と向き合うことを決めた。そのためにギターを弾いて歌いたい。だから、辞めたんだ。

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