「慧太に『たまには実家に連絡しなってお兄ちゃんが言ってた』って、伝えといて? たいしたことなんか、何もなくていいんだから」

 玄関で大人らしい上品そうな革靴を履いたおにいさんが、あたしに向き直る。

「ちょっと口悪いけど、ほんとはすごく真面目でやさしい子だから。慧太をよろしくね、ニャンコちゃん」

 あたしはちょっと恥ずかしくなりながらも、任された気持ちでしっかりと頷いた。
 おにいさんがドアを開ける。ちょうど沈む寸前の太陽の、今日最後の光がまっすぐに届いた。あと数分もしたら夜がくることを報せるように、外の空気はすでに夜の匂いが漂っていた。

「海未ちゃん」

 はっと顔を上げる。
 はじめてあたしの名前を呼んだおにいさんの、左耳のピアスがキラリと光った。新月ではなく、この瞬間は星のように。
 金色の光の中でおにいさんがにこりと笑う。

「いい名前だね。……あ、そうだ。今度さ、いっしょに甘いもの食いに行こうよ。おにいさんがご馳走してあげる」
「……けーたも?」
「慧太にはナイショ〜」

 歌を口ずさむようにそう言うと、おにいさんはまたあたしの頭をぽんとなでた。

「またね」

 不思議なひとだった。でも、あたしはおにいさんのことがすきになった。
 少しずつ遠ざかってゆく、けーたによく似たスーツの背中。アパートの手摺りに腕をのせてじっと眺めていたら、ふいにこちらを振り返って、手を振られた。照れつつ、おずおずとそれに返してみた。
 やっぱりけーたと似てない……。

「あはは、妹もいいな」

 おにいさんの口元が動いて、なにか言ったような気がしたのだけど、さすがにこの距離ではわからない。
 帰り道、けーたとすれ違うかな。
 ぼんやりと思いながら、おにいさんの姿が見えなくなるまで見送っていた。


 ドアが開く音がした。
 と思ったら、次の瞬間にはぱっと視界が明るくなった。あれ、朝かな。

「なんでこっちで寝てんの」

 愛想のない声が聞こえた。ソファの上で体を起こしてみたら、いつのまにか目の前には、ギターケースを背負ったけーたがいた。
 相変わらず不機嫌そうな顔をしながら、けーたはあたしの額に手を当てた。あたしはおとなしくじっとする。やがて、ふっと息をついて、ゆっくりと手が離れていく。不機嫌そうだった顔が安堵したように、少しだけ緩んで見えた。

「……もう、下がったよ」

 あたしが言うと、けーたは応えるようにあたしの髪をくしゃっとした。思わず目をつむり、開けたら、目の前にはまるで当たり前のようにけーたがそこにいる。

 けーたは夕方ぐらいに帰るとか言ったくせに、窓の外はもう全然夕方ではない。やっぱり信用ならなかった。
 けーたがギターケースを下ろし、着ていたジャケットを脱ぐ。それを適当な仕草でソファの背もたれに掛けて、キッチンへ行く。

「誰か来たの?」

 リビングに戻ってきたけーたは怪訝そうな顔をしていた。
 キッチンにはまだ洗っていないふたつのマグカップが、シンクに置きっぱなしになっている。

「ナイショだよ」

 あたしは、首を横に振った。

「けーたが夕方になっても帰ってこないから、プードルはもういないよ」
「プードル?」
「……けーた」
「なんだよ」

 下から見上げる、けーたの目。やさしい薄茶色。この色が、あたしはすきだ。

「おかえり、けーた」

 けーたがあたしを見ている。もう見てくれないと思ったのに。

「……ただいま」

 おかえり。ただいま。
 もう言えないし、返ってこないと思ったんだ。
 よかった。よかった、言えた。返ってきた。
 けーたが帰ってきて、よかった。


 夜はふける。
 けーたがお風呂に入っているとき、あたしは冷蔵庫を開けてみた。プードルが、ほんとうはまだふたついることを、けーたは知らない。けーたが気づくまで、あたしはおしえてやらない。おにいさんの笑った顔を思い出し、口元がいたずらなかたちになる。
 おにいさんが来たことは、もしかしたらけーたは気づいているのかもしれない。けーたはずっと拗ねた子どもみたいな顔をしていた。

 今夜もあたしはベッドで、けーたの隣で眠った。ふたりで眠るベッドは狭い。おやすみ、と言ったら、すぐ近くから少しかすれた声で、おやすみ、と返ってきた。
 けーたはあたしが眠ったあとも、たぶんずっと起きていた。歌を口ずさむのが、夢うつつに聴こえていたから。
 あと数時間もしたら朝がくる。明日になる。いつもはそれが少し不安で、こわかったのだ。でも今夜は安心して眠ることができた。やさしいハミングと、けーたがずっと手をつないでいてくれたから、あたしは迷わずに眠りにつくことができた。
 時々やわらかくあたしの手を握ってくれる、大きな手に応えるように思う。

(けーた、明日になったらおにいさんから言われたこと、おしえてあげるよ)

 あと、プードルケーキ、いっしょに食べてもいいよ。

- 99 -

prev back next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -