おにいさんは、またあたしが訊きたそうな顔で見ていたのに気づいたようで、あたしが訊ねる前におしえてくれた。
「この部屋ね、前は俺が慧太と住んでたんだよ」
キッチンからリビングへ移動する。ローテーブルを挟んで、おにいさんがあたしの向かい側に腰を下ろした。あたしはソファを背もたれにして、いつも座っている位置に借りてきた猫のように座る。
「元々俺がひとりで借りてたんだけど、慧太が高校卒業してすぐこっちに来てさ……」
アルバムを開くように、おにいさんが語り出す。あたしがここに住む前の、けーたがこの場所にいたときの生活を。
コーヒーを飲むばっかりで、あんまり食べないで、いつも不機嫌そうな顔をしていたけーたの話を聞いて、今とそんなに変わらないな、と思わず笑った。でも今と少し違ったのは、けーたはこの部屋でずっとギターを弾いていたということ。時々、消えそうな声で、歌を口ずさんでいたこと。
おにいさんが淹れてくれたミルクコーヒーに口をつけて、あたしはじっと耳を傾けていた。映写機から流れる映像を見ているような気持ちで、聞いていた。
あたしの知らないけーたが、ここにいたのだ。
「懐かしいな」
ふと、おにいさんの視線と声のトーンが上がった。あたしを見て懐かしいと言ったのかと思ったら、おにいさんの視線はあたしのうしろへ向けられていた。
「慧太、そこで寝起きしててさ、野良猫みたいだったな」
大人ふたりが座れる程度の白いソファ。クッションはないけれど、毛布がある。
陽が当たるこのソファの上で眠るのがすきだった。眠るには少し不充分に見えるかもしれないけれど、案外心地がよかった。落ちたことも、なんと一回もなかった。
ソファには、かすかにけーたのにおいが残っている。最近気がついたことだ。
「……今は、あたしがここで寝てます」
そっか。けーた、ここで寝てたんだ。
あたしのこと猫扱いしておいて、なんだ、自分だって猫みたいだったんじゃん。
おにいさんは、そうなんだ、とやわらかく笑う。砂糖もミルクも入れなかったコーヒーに口をつけて、突然、あっと声をあげた。
「やべ、忘れてた。ねえニャンコちゃん、甘いの好き?」
「あまいの?」
「プードルケーキって知ってる?」
おにいさんは床に置きっぱなしにしていたらしい白い箱を、ローテーブルの上に置いた。
「みて」
手招きするようなその声に誘われて、あたしは開かれた隙間から箱の中身をおずおずと覗き込んだ。そして、中にいたプードルのまるい目とかち合った。
「かわいい」
思わず笑みがこぼすと、おにいさんも笑った気配。
「慧太にはナイショね」
ふたりで食べちゃおう。
顔を上げたら、おにいさんがいたずらな口元で笑っていた。
窓から見えた暮れかけの空には、白い月が浮かんでいた。満月の手前。
「長居しちゃってごめんね。ニャンコちゃん、聞き上手だから」
帰り支度をはじめたおにいさんに困ったように笑いかけられて、あたしが困った。聞き上手だなんてはじめて言われた。照れる。
「あの、ケーキおいしかったです。ありがとうございました」
ぺこりと下げた頭に、ぽんと手が置かれた。
「俺も楽しかった。ありがとね」
「……」
「あは、慧太と似てない?」
おにいさんの目は、けーたと同じ色で、あたしの心を見ている気がした。なんでも見透かされてしまうような、だけど無理やり覗かれるような乱暴な心地ではない。不思議だな、と思う。
「かたちは少し違うけど、でも、空気が似てるなって思います」
「……空気?」
「あ、えっと、やさしいかたちは違うけど、でもいっしょにいる空気がやさしいのが、おにいさんとけーたは似てます……」
なにを言ってるんだろう、と自分で恥ずかしくなる。説明は昔から苦手だ。案の定おにいさんは目をまるくしたけれど、しかしそれは一瞬のことだった。
「……ニャンコちゃん、いい子だね」
おにいさんは薄茶色の目にあたしをうつし、やわらかく微笑する。
「人と話すとき、まっすぐ、ちゃんと目を見て話すの。慧太はさ、ニャンコちゃんのそういうところにけっこう救われてるんだと思うな」
「……」
「前に電話で話したとき、なんかあんまり大事にしてるみたいだったからずっと気になってたんだよね。……うん、そっか。やっぱり来てよかった」
ほほえみを浮かべながら納得したように頷くおにいさん。それを見ているとものすごく褒められているような心地になって、胸の奥がくすぐったくて、足元がふわふわした。また熱が上がったらどうしよう。
やっぱり、けーたと似てない。
そんなふうに結論づけたところで、あたしはふと口を開いていた。
「……おにいさんは、けーたが大事?」
するりと口から出てしまった質問にはっとして、またしても後悔する。
でも、返答はすぐに返ってきた。
「うん、大事だよ。俺の弟だからね」
あたしのくだらない後悔なんかそれだけで消えてしまうくらい、それはやさしい温度をもった言葉だった。あたしに対しての言葉ではないのに、どうしてなのだろう、泣きそうだ。
やさしさが胸にすとんと落ちて、なんだかものすごく安心したのだ。
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