部屋の奥へと進んでいく背中を、うしろから見ていた。
 背丈と体の細さが同じくらいだ。煙草と香水が混ざったような甘くて苦い香りがふわりと流れてくる。それも似ているけれど、香りそのものは違う。たぶん、香水と煙草の種類が違うのだ。

「あの……」

 案内もなしにリビングにたどり着いた彼が、こちらを振り返った。反射的に体が固くなってしまったけれど、彼はただにこりと笑いかけただけだった。

「……あ、あの、けーた、もうすぐ帰ると思います」

 けーたが不在であることは玄関先ですでに伝えていた。改めてあたしがそう告げると、彼はチェシャ猫の笑顔のままに体をあたしのほうへ向き直した。
 ネクタイのない、少し着崩したスーツ姿。鞄のようなものはとくに見当たらず、右手にはなぜか白い箱だけが提げられていた。ケーキを入れるような箱だ。もしかして慧太へのおみやげかな、と思う。
 それにしても、纏う雰囲気やピアスも含めて、あまりサラリーマンには見えない。なにをしている人なんだろう。

「あははっ、そうだよね。申し遅れました。私、こういう者です」
「え」

 口に出したわけじゃないのに、あたしは余程顔に出ていたのだろうか。
 彼は声をあげて笑うと、スーツの内ポケットから何かを取り出して、丁寧にあたしへと差し出した。

【ライター/編集者 来栖 慶介 Keisuke Kurusu】

 シンプルな白い名刺だった。職業と名前の他に、住所、電話番号、メールアドレスが書かれてある。
 来栖、慶介。
 頭のなかで名刺に書かれた名前を読みあげる。今はじめて知った名前なのに、不思議とそうじゃないような気持ちになる。それでも緊張で胸のあたりがそわそわと落ちつかない。
 けーたの、おにいさん。

「慧太がね」

 顔を上げる。目の色がけーたと同じ、薄茶色。

「前に電話したとき、『猫飼ってる』って話してくれたんだ。だからほんとはもっと早く会いたかったんだけど、仕事片づけてたらずいぶん遅くなっちゃった」
「……」
「ね。ニャンコちゃん、名前なんていうの?」

 ニャ、ニャンコちゃん……。
 にこにこと楽しそうな笑顔で、けーたに似た声がそんなふうにあたしを呼ぶのが正直、とても反応に困った。
 どうしよう、なんか、あんまりけーたと似てない。

「ニャンコちゃん、コーヒー淹れていいかな?」

 思いついたように言うやいなや、マイペースにおにいさんがキッチンへと向かうので、あたしは慌ててその後を追った。

「あ、あたしやります」
「大丈夫大丈夫〜。勝手はわかってるから」
「……」

 スマートに断られて、棒立ち。頭の上でチーンとむなしい音が鳴った気がした。あたし、とても役立たずである。
 とはいえ、ひとりリビングへ戻ることもできず、ほんとうに勝手知ったるというふうにコーヒーを淹れる姿を、ついまじまじと眺めた。
 けーたが普段使っているマグカップを手にすると、それに懐かしそうな視線を落とす、けーたのおにいさん。

「ニャンコちゃんもコーヒー飲む?」

 ふいに目が合って、訊かれる。
 あたしはおずおずと頷いて、自分のマグカップを手に、おにいさんの隣に立った。自分の、といっても、ここにきてからあたしが勝手に使っているやつだけど。

「ミルクを多めで……」
「は〜い、仰せのままに」

 狭いキッチンに、コーヒーの香りのやわらかい湯気が立ちのぼる。
 お客さまのはずのおにいさんが、あたしの分のミルクコーヒーまで淹れてくれる。その手つきはとても丁寧で、流れるように手慣れている。
 不思議だな、と思う。にこにこしていてやさしくて、けーたと全然似ていないのに。こんなふうに隣にいる空気が、けーたと似ている気がした。

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