ソファから降りて、部屋のカーテンを少しだけ開けてみた。外は日向くんの言うとおり、ほんとうに雪が降っていた。
ほろほろと雪を落とす真っ白い空を眺めていると、この部屋にあたしだけがおいてけぼりになってしまったような、そんな気持ちになる。
なんだか食欲がない。朝ごはんは食べないことにした。とりあえず歯を磨いて顔を洗おうと、氷のように冷たいフローリングの床を裸足でぺたぺた歩く。
雪は、少しぐらいは積もるのだろうか。積もらないといいと思うけれど、白く染まった道を歩いてみたいとも思う。子どもみたいな気持ちで足跡をつけながら歩けば、ひとりでも行ける気がする。
でも、どこへ?
そのとき、視界が大きく揺らいだ。
バタンッと大きな音が静寂を割り、またすぐに静寂が部屋をつつむ。
「……」
いたい。
頬に床が当たっている。その冷たさで、状況を理解した。なにもないところで転ぶなんてばかみたいだ。
手をついて、ゆっくりと体を起こした。頭がぐらぐらする。視界も不安定に揺らいだまま。なにしてんだ、と情けなく思うと、とても泣きたくなってきた。あたし、なにしてるんだろう。
「なにしてんの」
そんな声が、背中のほうから聞こえた気がした。知らないうちに耳に馴染んでしまった声。心の奥に、刻まれてしまった声。
あたしは床にぺたんと座り込んだまま動けない。足音が近づいてきて、ふっと影が落ちてくる。あってないような体温を感じる。誰かがそばにいる気配。
誰か、なんて、そんなの――。
「転んだの?」
少し呆れたような、あたしを子ども扱いするようなその口調に、意識の端っこのほうでむっとした。
あたし、もうとっくに十九歳になったんだよ。知らないと思うけど。どうせまだ未成年だけど……。
「……なに泣いてんの?」
痛いの。そう訊かれて、あたしは気がついた。フローリングの床に、ぽたぽた水滴が落ちている。
ゆっくりと顔を上げた。視界は涙ですっかり歪んでいた。なのに、あたしを見ている薄茶色の目がそこにあるのがわかる。いじわるそうな目が、あたしを静かに見下ろしている。
「……けーた」
名前を呼んだら、髪をくしゃっとなでられた。まるで、猫にするみたいに。
けーた、あたし、猫じゃないよ。知らないかもしれないけど。
猫扱いでもいいよ。でも、あたしは猫じゃないんだよ。
けーたは髪をなでたあと、今度はあたしの額に触れた。前に触れられたときと同じ、ちょっと乱暴で、冷たい手だった。けーたの手だ、と思ったら、あたしはとても安心してしまった。でも涙は、いつまでもとまらない。これは、なんの涙だろう。
けーた、ともう一度呼んだ。けーたはあたしの後頭部に手を回して、あたしを胸に押しつけるようにした。
(あったかい……)
この体温を知っている。けーたがここにいる。
けーた、おいてかないで。あたしはきっとなにもいらないんだ。だから、だから、どこにもいかないで。けーた、いかないで。
泣きながらけーたの腕の中におさまるあたしは、やっぱり子どもなのだ。ちっぽけでなんにもない、十九歳の。
けーたはなにも言わない。なにも言わずに、ただ静かにあたしを抱き上げて、部屋の奥へ向かって歩き出す。
雪が降る、真冬の中心。
世界から取り残されたようなこの部屋の中に、あたしたちがいた。
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