「今日、話聞けてよかった」
視界の先にアパートが見えてきた頃、ふいに秋吉が言った。
「慧太から、海未ちゃんの話聞けて、よかった」
めずらしく心底安堵したような声音でそんなことを言うので、俺はただただ黙って耳を傾けるしかなかった。
「『矛盾してる』って、慧太言ったけどさ。そう思ってないよ。俺も、唯太も」
俺を見据えて笑う口元に、八重歯が小さく覗いていた。
喧嘩は数え切れないほどにしたけれど、笑ったときにそれが見えるのは、嫌いじゃなかった。
「だって『後悔してる』って、慧太、自分の気持ちわかってんじゃん」
「……」
「でも、ま、ふたりのことだからね。今後どうすんのかはふたりで決めてよ。って、実はこれ唯太の台詞なんだけどね。ははっ、こないだといい、唯太ほんとイケメンだよね。……あー、でもやっぱり、海未ちゃんがいなくなるのはさ、俺らも寂しいっていうのは、言っといてよ。あっ、あと! メアド教えてっていうのも!」
じゃー、よろしく! と手を振りながら、秋吉は俺を残して自分勝手に突き進んでいく。
って、なにが「よろしく」だよ。全然よろしくないっつーの。
「――秋吉!」
思ったより声がよく響いたので、叫んでしまってから自分で驚いた。
秋吉が驚いたように立ち止まって、振り向く。その顔に思わず笑った。どっちがまぬけ面だよ。
「メアドぐらい自分で聞け!」
真夜中を裂くような声量を変えずに叫んだ。
ぽかんと俺を見ていた秋吉が、しばらくして、ぶはっと噴き出した。
「今度飲み行こ! 四人で!」
「え、お前酒入るとウザいから勘弁して」
「そのセリフそのまま返すわ!」
そういえば、俺も秋吉もふつうに会話しているあたり、全然シラフだ。ビールをほとんど飲まないで帰ってきたことに今更気づく。
ああ、ほんとうに俺が聞いてもらうだけだったんだな。
「秋吉」
「今度は何すか〜」
「ありがとな」
「…………うっわ! ちょっ、やめてよ雪降る! あっ、唯太に電話しーよぉ〜」
「黙って帰れバカ! 近所迷惑なんだよ!」
「そのセリフそのままバットで打ち返すわ! あ、もしもし唯太? やばいよ、明日雪降るわ。うん、今慧太がデレたから」
「おまえそこ動くなよ、今部屋からギター取ってくっから」
「なんでよ!? 俺をボコるため!?」
ケータイ片手に颯爽と走っていく背中。突然振り返ったかと思えば、「慧太のバーカ!」という捨て台詞。バーカ! って、小学生か。おまえのほうがもっとバカ。
「……は、」
秋吉のうしろ姿も見えなくなって、ひとりになった途端笑えてきてしまった。気持ちが、驚くほど軽くなっていた。
ああ、笑える。俺、なにしてんだ。
なにしてたんだ、ほんとうに……。
目を上げた先には、見慣れたアパートが佇んでいる。部屋は二階。きっと部屋の中は暗くて、でも外よりは少しあたたかい。リビングではかすかな寝息が聞こえていて、ソファの上で毛布にくるまって、ちいさく呼吸をしている存在に、俺は安堵するのだ。まだ夢を引きずる声が、おかえり、と言えば、ただいま、と返す。明日も続けばいいと、祈るように思いながら。
「……ギター」
ギター、弾きたい。
吐き出した言葉が白い息になって消える。それを見送りながら、唇がいつのまにか無意識に動いていた。
歌が、すきだ。秋吉から改めて言われるまでもなく、きっかけはいつからだったか思い出せないくらい、ずっと、すきだった。
歌はずっと自分のためのものだった。べつに誰に聴かれなくてもいい、と、そう思っていた。
なのに今、メロディーが思い出したように鳴り出した。
それはまだ未完成の曲で、そもそも完成させようとも思っていなかったはずの、自分のための曲だった。それが今になって、なんで、こんなに――。
目を閉じる。ある瞬間に、すっと深く息を吸い込む。吐き出されるのは、かすかで、ひどく頼りないメロディーだった。
数秒後に、目を開けた。
もしも、未完成なこれを完成させたら。そのとき、俺が、おまえに聴いてほしいと言ったら。
もしも俺がそんなことを言ったら、笑うのだろうか。猫みたいな目で、また俺のことをじっと見て。
後悔がメロディーに変わっていく。
星が見えない藍色の夜は少しずつ、たしかに朝へと向かっている。
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