曖昧だった境界線。それがはっきり音を立てて切れたのは、はじめて海未に手を出した夜だった。
あの夜、俺が触れている間、海未は声もあげないし、涙のひとつもこぼさなかった。何かを訴えかけるようにいつも俺をじっと見つめてくる大きな目は、夜闇の中で一度だって俺を見ようとはしなかった。
それからは、海未は俺を警戒するかのように、朝、俺を起こしに来なくなった。朝飯をひとりで済ませるようになった。俺のおさがりではなく、自分の手持ちの服を着るようになった。
当たり前か、と自嘲気味に笑いたくなったが、どうしてかちっとも笑えない。それどころか、そんな海未の行動ひとつひとつに俺は苛立ちを感じていた。
隠れるように履歴書を書いていたときも。バイトをすると答えたときも。苗字、親の名前、住んでいた場所を知ったときも。慣れないケータイで、俺の知らない誰かとメールしていることも。
ああ、いなくなるのだな、と感じていた。少しずつ、海未はここからいなくなる準備をはじめている。それがひどくうざったかったのだ。
けれどそんなふうに感じる一方で、俺は海未に何も言わなかった。だって、何を言えばいい? はじめから、海未がいなくなることなんてわかっていたのに。
海未のバイト先は知っていた。きっとあいつは気づいてなかっただろうけれど、以前一度だけ仕事中の海未を見かけたことがあった。
アパートの近所で、駅からの帰り道に通りかかるコンビニ。その日、スタジオでのバンド練習のあと、たまたま店の前を通りかかり、煌々と夜闇を照らす照明になんとなしに目が向いた。ガラス窓からは明るい店内がはっきりと窺えた。店内で、コンビニの制服を着てレジ打ちしている海未の姿も。
こちらに少しも気がつかないその真剣な様子を外から眺めながら、俺は思わず笑ってしまった。
あいつ、仕事してんじゃん。ニートでヒモのくせに。部屋着、俺のTシャツなくせに。猫のくせに……。
それから数日後の夜も同じように、スタジオからの帰りで俺は駅を出た。
アパートに帰る前に、コンビニに寄ろうと思った。腕時計の時刻は夜十時近かった。
(煙草のついでだ)
ちょうど仕事を終える頃合いだろうし、切らしていた煙草を買うついでに、部屋まで一緒に帰ってもいいかな。と、そう思ったのだ。
コンビニに向かうと、予想通り、ちょうど仕事を終えたらしい私服姿の海未が店の前にいた。夜にとけてしまいそうな紺色のコートを着て、俺のTシャツなんかじゃない、ちゃんと自分の服を着た海未は、俺の知らない海未だった。
(なあ、おまえさ、ほんとうの猫みたいだな。そうやって全部、全部、今まで何もなかったみたいに、いなくなるんだろ?)
海未が、店の前で俺の知らない誰かと笑って話していた。
その光景を目にうつした瞬間、苛立ちが、なんだかもうとにかくすべてが、胸の奥底から一気に押し寄せてきた。
――けーた……。
奪い去るように無言で連れ帰って、衝動的にソファに押し倒した。はじめて海未に手を出した夜と、同じように。
――けーた。
――あたし、ここをでてく。
海未は俺に言った。泣きながら、ふるえた声で。
目の前で涙を流す姿も、子どものように怯えきった顔も、それでも精一杯振り絞ったような声も。そんなもの何ひとつ知りたくなかったのに。
でも、もう遅い。すべて俺がしたことの結果だった。
矛盾している。はじめからわかっていたなどと思いながら、俺は、後悔しているのだ。
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