『ニャンコ、かわいかったよな』

 脈絡のない言葉に不思議と驚きはなかった。たぶん兄貴から電話をもらう前に、頭の片隅で思い出していたから。

 あの頃、猫がいた。
 明るい茶色と焦げ茶色のまだら模様の猫だった。外で生きているかすれた声で鳴いた。野生的な太い脚。あの脚で、猫はどこまで行ってしまったのだろう。
 あの猫はいつのまにか姿を見せなくなった。
 部屋に西日が差す頃に、音もなく庭に現れては、まるで俺の名前を呼ぶみたいに鳴いていた。戯れに名前さえもつけなかった、あの猫。

「……兄貴さあ、もしかしてそんな昔話するためにわざわざかけてきたわけ」
『うん。ふいに思い出したら、なんかしんみりしちゃって。猫ってほんとたくましいよね、したたかだし。俺も猫になりたいわ。そして仕事だるい』
「猫にならなくても、あんた十分したたかだよ」

 兄貴が軽い調子で笑った。その変わらない笑い方にどうしてか安堵している自分に気づいたことは、兄貴にはとても言えなかった。
 人や物の変化を目の当たりにすることは昔から苦手だ。なんだか自分のテリトリーまでかき乱されるようで。同時に、変わらないということは、ぬるま湯に浸かるように怠惰でうざったくて、そして安堵するから。

『ところでさあ、』

 兄貴の声の背後からかすかなノイズが届いてくる。どうやら屋外に出たらしい。今までどこにいたのか知らないが、仕事はいいのか。

『なんで慧太、さっきからちょっと小声で喋ってんの?』
「……あー、」

 まるで今はじめて気がついたように、ソファから聞こえてくる小さな寝息へ意識を向ける。

「猫、いま寝てっから」
『え? 慧太、猫飼ってんの?』
「なんか拾ったから」

 ふつふつと可笑しさが込み上げてくる。なにふつうに答えてんだ、俺。思えば思うほど滑稽で、可笑しかった。

『へえ、そっかあ。猫かあ。じゃあ今度遊び行くからさ、見してよ。ニャンコちゃん』
「……やだ」
『なにそれ、親バカ?』

 親バカというより、戯れだ。それも十数年前のそれよりもずっとタチの悪い。
 ふと、確認した腕時計の時間はいつのまにか16:30に変わっていた。こんなに生産性のない会話で一時間近くも消費してしまったことに驚く。

「兄貴、もうほんとに切るよ。出かけるから」
『はいはい。頑張ってね、ギター』
「……そっちも、仕事しろよ」

 笑い声の後に、あっけなく通話は切れた。
 軽くため息をつく。結局、ほんとうに猫の思い出話をするためにかけてきたのかと思うと、半ば呆れた気持ちになる。猫のようなフリーダムさが素直にうらやましい。いちおう血は繋がっているというのに、俺と兄貴は正反対だ。
 しゃがんでいた体勢から腰を上げると、足にわずかな痺れが走った。

「……首輪、買うか」

 寝顔を覗き込んでついこぼれた自分の呟きに、思わず嘲笑のような笑いが漏れる。
 首輪って……。さすがにないな、それは。
 毛布にくるまる小さな体。俺をじっと見つめる焦げ茶の瞳は、今はしんと閉じられている。

「……兄貴が来たら、おまえ、どうする?」

 寝顔に問うが、答えなんか返ってくるはずもなく。
 いつかほんとうに、兄貴はふらりとここへ遊び来るかもしれないが、焦りやその他の感情は少しも湧いてこなかった。目の前のたしかな存在をどうしようとも思えない。今は、まだ。

 そういえば、あいつの目はどんな色だったっけ。
 もうきっと思い出せないのに、そんなことをぼんやりと考えながら、あの猫に似た茶色の髪をそっと撫でた。


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