「……さむ」
潮風を浴びながら独白してみたものの、思考は寝起きのようにぼんやりとしていて、感じる寒さにいまいち現実味がなかった。
視界の先には海があった。アパートから歩いて行ける距離の臨海公園。特に用事が何もない日は、気分のままにひとりで向かう場所だ。
海面は夕陽をうつして神々しく光っていた。地平線の彼方まで続くそれはたしかに美しかったが、実際十二月の海辺は容赦のない風の強さだった。ダウンのフードが後頭部でバサバサ揺れるのが鬱陶しい。
ベンチに腰を下ろし、生き物のようにさざめく光の海を眺める。イヤホンから聴こえてくる音楽は、俺の意識を現実から引き離していく。
「……、……」
ぼうっと音楽を聴いていると、いつも無意識に歌詞を口ずさんでいる。こんなふうに人気のない場所で、ひとりでいるときの癖だ。
だから、それが誰かに聞かれるなんて俺は思いもしなくて、あのときはそうとう恥ずかしかった――。
五分にも満たない曲が終わる。イヤホン越しに聞こえてくる風や、さざ波の音。
プレーヤーはたしかランダム再生に設定したはずだった。なのに、次の曲はいつまで経っても流れてこない。ダウンコートのポケットからプレーヤーを出してみると、ディスプレイには【No battery】という英字表示が無機質に点滅していた。
赤い点滅に目を落としながら、小さく歯噛みする。
(――ああ、)
何してんだ。
どうして、生活が戻らない。馬鹿らしい。ぜんぶ俺がしたことの結果。
裸足の足音。舌足らずな声。泣きはらしたあとのひどい顔。はじめて目の当たりにした、涙。もうずっと、頭の中をぐるぐると回っている。
矛盾する気持ちに苛立ち、そして、ひどくむなしかった。
この感情の正体に、ほんとうは気づいていた。
「……」
イヤホンを巻き付けたプレーヤーを仕舞い、代わりとばかりにケータイを取り出した。なんとなしに目に留まった時刻表示は、16:29。
時間が微妙だ、と思い、しばし次の行動を躊躇する。しかし半ばヤケになって、すっかり冷えきった指先でケータイを操作した。
着信履歴から引っ張り出した番号に、発信する。
『はい。鈴木です』
五回目のコールのあとに聞こえてきた低い声に、一気に肩の力が気が抜けた。
鈴木ですって……。知ってるし。非通知でないのだから、向こうだってかけているのが俺だとわかっているくせに。
「……唯太?」
数少ない呼び慣れた名前を口にすると、電話口からは、そうだけど、とあっさりと返ってくる。それから、どうかした? と続く。
ついこの間、俺を殴った当人とは思えないほどのスローペースであり、通常運転である。もしかしてあれは俺の夢なのでは、とつい疑ってしまう。昨日湿布を取ったばかりの頬は、未だに鈍く痛むけれど。
『慧太からかけてくるのレアだな』
と、俺が返答の言葉を探している間に言われる。
「……べつに、レアではねえだろ」
『ははは、そう思ってるの慧太くんだけだよ』
棒読みで笑われて、思わず黙る。
唯太の言葉に自覚はないわけではなかった。いや、唯太だって人のこと言えないはずだ。なにせ俺のケータイの着歴は、確認しなくても兄貴か秋吉か兄貴か兄貴か、たまに唯太、という有様だ。
唯太の言う通り、電話はあまり好きではない。だけどメールもめんどうだ。しかし会って直接話すのが好きかと問われたら、それが一番苦手なのだけど……。
「ああもう……めんどくせえ」
『なにが?』
「……いや、こっちの話」
わかっている。自覚はあるのだ。こんな性格だから、ろくに友人もいないし、今まで女とまともな付き合いもしていない。
それでかまわないと思っていた。本音を言うのは苦手だし、むしろ自分の本音がどこにあるのかもわからなかった。
ただ、今は、わからないから、わかりたいのだと思う。ひとりで腐るのは、もう疲れた。
おもむろに自分の頬に触れてみる。この間の拳は、重かった。夢なのではないかと疑うのは、あんなふうに、俺なんかへ気持ちをぶつけられたことが、信じられなかったからだ。腫れ上がるほどの痛みに対して、怒りは微塵もなかった。
「……あのさ、」
息を吐くように言う。
「今から……時間ある?」
聞いてほしいことがあるんだけど。と、やっとの思いで告げて、それからやってきた沈黙にめちゃくちゃ気まずくなる。
なんだこれ。唯太、聞いてんのか? 頼むから黙るとかやめてくれ。
『……ビールは買ってあるから』
俺にとっては死にそうなほど長く感じた、きっと一分にも満たない沈黙ののちに聞こえてきたのは、いつもと変わらないスローペースな唯太の声だった。
『なんかつまみ買ってきて』
いや、いつもより少しだけ、笑っているような声だった。
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