いつかいなくなる。
 すべてたわむれに過ぎない。意味なんてこれっぽっちもなかった。わかっていたことだ、最初から。
 ただ、泣かせてしまったことは、悪かったな、と。大きな瞳から溢れる涙をはじめて目の当たりにしたとき、ああ、俺、何してんだ、と。
 そう、ほんの少し、後悔した。
 べつに、それだけ。


 あの寒い春から九ヶ月が経っていた。数えてみれば時間の経過の早さに改めて驚かされる。あと三ヶ月で、一年になるのだ。
 たいして何をしたわけでもなかった。だけど九ヶ月という時間は、非日常が日常へ、生活の一部として組み込まれるのには充分なもので――。

「……」

 薄く目を開ける。カーテンを閉め切っていても、部屋の中の明るさは否応なしに朝を報せていた。
 体を起こさないまま、俺は静かに息を吐いた。バイトから帰ってきて寝ついたのが、ようやく夜が明けはじめた早朝だった。体に残る疲労感は、ベッドに入る前とたいして変わりはない。
 手を伸ばして、ベッドサイドのケータイを取る。ディスプレイで光る文字は8:32だった。二時間も寝ていない事実に、またしても嘆息が漏れる。

 ――けーた。

 舌足らずなソプラノトーン。
 猫のくせに朝型で、毎朝規則正しく俺を起こしにやってくる。耳元で、催促するように俺の名前を呼んだ。

 ――けーた、朝ごはんいっしょに食べよ。

 いつもマイペースなくせに、変なところでくっつきたがった。朝飯ぐらい勝手に食えばいいのに、と億劫に思いながらも渋々リビングに顔を出せば、俺を見上げてうれしそうに笑う猫の目が、嫌いじゃなかった。

(……馬鹿らしい)

 ケータイを放り、再び毛布にくるまる。
 目を閉じ視界は暗くなるが、しかし期待した安眠は一向に訪れそうにない。いいかげん寝不足で頭が重かった。
 ふと、ドアを隔てた向こう側、リビングから物音が聞こえてきた。
 意識しないようにしていても、勝手に神経が向かってしまう。カーテンを開ける音。窓を少し開ける音。裸足の足音。
 馬鹿らしい、と思う。わかっている。足音がこちらへやってこないことなんて。
 案の定、裸足の足音はちいさくちいさく遠退いていく。バスルームのドアが閉まる音を聞いたあと、俺はベッドの上で上半身を起こした。髪を掻き上げ、三度目の嘆息。
 ああ、何してんだ。
 生活がもとに戻っただけだ。ただそれだけのことで、こうなったのは、俺がしたことの結果なのに。
 ぜんぶ、わかっていたはずだろう。だってあの日声をかけたのはたわむれで、だから、いつか終わることなんて――。
 頭ではちゃんとわかっているはずなのに、心のどこかでそう思いたくないような気持ちがあるのだ。
 矛盾するこの気持ちが嫌になるほど面倒だった。俺が苛立つのは、いつだって“自分自身”に対してだ。

 ――海未。海に、未来の未で、海未。

 ――なにそれ、本名?

 ――うん。

 ――ふうん……。

 煙を吐き出すついでに名前を呼んだ。あのときの泣きそうな目を、たまに、フラッシュバックのように思い出すのだ。
 潮風が肌を刺すように冷たかった、二十一歳の春。あれからもう九ヵ月が経ったが、俺たちは今もいっしょにいる。お互いを知らないままで。
 そんな生活も、きっともうすぐ終わるのだけど――。

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