帰り道、日向くんもあたしも、お互い何も喋らなかった。
夜風が凍てつくように冷たく、ふるえてしまいそうに寒かった。けれど、左手だけはずっとあたたかかった。日向くんは動物園を出てからずっとあたしの手を握ってくれていた。
日向くんの手はおおきくて、あたしの子どものようにちっぽけな手なんか簡単につつみこんでしまえる、男のひとの手だった。
いつのまにか周囲は見慣れた景色に変わっていた。ここは、バイトを終えて、いつも日向くんがあたしを送ってくれるアパートの近くだ。
泣きすぎて頭がぼんやりと重い。日向くんが手をつないでくれなかったら、あたしはきっとひとりで帰ってこられなかった。
「……岡部さん」
歩みが止まる。ずっとつないでいた手がするりと解けて、日向くんがあたしを呼んだ。顔を見なくても、今彼が笑っていないことはわかった。
「俺、訊いてもいいですか……?」
静かに意を決したような声音で訊ねられる。あたしは日向くんの顔をうまく見られずに、ただ小さく頷いた。
「こないだのあの人……あの男の人って、岡部さんのカレシですか?」
「……ううん」
ちがう、と弱々しく首を振る。日向くんは、そっか、とだけ答えた。その声は少しだけ笑みが混じっていたように聞こえたけれど、いつもの日向くんの笑顔では、きっとない気がした。
あたしのせいだ。
「……ごめん」
かすれて、情けない声が出た。それでも精一杯あたしは続ける。
「あのね、今日、楽しかったよ。ほんとうだよ。すごく楽しかった。うれしかったよ」
だから、ごめんね。
自分でももう何を言っているのかわからなかった。けれど日向くんへの罪悪感だけが、その輪郭をくっきりさせてあたしのなかにあった。日向くんの顔も見られないのに、消えそうな声で謝るあたしは、なんて情けないのだろう。
しばらく沈黙が流れた。ふと、あたしのすっかり冷たくなった左手が、あたたかいものにつつまれた。
「岡部さん」
やわらかい力であたしの手をつつむのは、日向くんの右手だった。
こっち見て、と言われて、言われるままに顔を少しだけ上げた。覚悟していたよりずっとやさしいまなざしが、あたしのことを見ていた。
「岡部さん、あのね、岡部さん今日俺に『つれてきてくれてありがとう』って言ってくれたけど、ほんとうはそんなんじゃないんです」
日向くんは、まっすぐあたしを見ている。瞳の奥にあたしの姿をうつしながら、青空のように澄んだ声で言う。
「つれてくなんてカッコいいこと言ったけど、ほんとうはそんなんじゃなくて、ただ俺が、岡部さんといたかったから。岡部さんが笑ってるのを、俺が見たかったから」
気づけばあたしはしっかり顔を上げていて、夢中で目の前の彼の言葉を聞いていた。
知らなかった。あたしは、全然知らなかった。
誰かを抱きしめるときの力強さも、男のひとの手をしていることも。やさしいまなざしあたしのことを見ていてくれて、こんなにも言葉がまっすぐで、キラキラとまぶしいことも。
「すきです」
あたしは、日向くんのことを全然知らなかったのだ。
「俺、岡部さんのことがすきです。ずっと、最初から」
ずっと。最初から……?
呆然としているあたしに、日向くんが小さく笑いかけた。
「岡部さん、全然気づかなかった?」
「……」
ぎこちなく頭を縦に動かす。日向くんは笑顔を浮かべたまま、そっか、と言う。
つながれた手に少しだけ力が入る。きゅ、と握られたあたしのちっぽけな手は、日向くんによって簡単にさらわれてゆく。そのまま、手の甲にやわらかいものが触れた。
「……考えてください。俺のこと」
日向くんは、引き寄せたあたしの手の甲に、一度だけキスをした。
「年下だし、高校生だし、岡部さんからしたらすごく頼りないかもしれないけど……。でも俺、岡部さんが笑ってくれるなら、できることなんでもします。だから、俺のこと考えて」
ひとつひとつたしかめるように丁寧に言葉を吐き出したあとに、日向くんはあたしの手を離した。じゃあ、と言いながら、日向くん自身もあたしからゆっくり離れていく。
「今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「……うん」
なんとか頷いて、おやすみ、と答えたけれど、それはまったくといっていいほど声になっていなかった。
駅へ向かって歩いていく日向くんの背中を、見えなくなるまで眺めていた。ぼうっとその場に立ち尽くしながら、足元がひどくおぼつかなくて、くらくらと、少しだけめまいをおぼえた。
唇がふれた手に、そろりと指先でふれてみる。
あたしの知らない体温だけが、いつまでもそこにあった。
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