青かった空の色はすっかり橙色に染まっていた。日が落ちはじめた外の空気は、一層冷たさが増す。
 時刻は午後四時。閉園のアナウンスはまだ聞こえてこないけれど、園内はすでに閑散としていた。たくさん聞こえていた子どものはしゃぎ声も、もうあまり聞こえない。

「閉園って何時だったっけ」
「えっと、五時だったと思います。たぶん」
「そっか。もうすぐ帰らないとだね」
「……岡部さん」
「ん?」

 隣を見上げる。日向くんは、笑っていなかった。

「あの……今日、俺すごく楽しかったです」
「……」
「岡部さんがいっぱい笑ってくれて、俺が楽しいって訊いたら『楽しい』って言って笑ってくれて……だからすごく、うれしかったです」

 日向くんがまっすぐあたしを見据えながら、すごく真剣に話してくれる。あたしは不思議だった。だって、今日、楽しかったのもうれしかったのも、あたしのほうなのに。
 日向くんの輪郭が橙色に光っていた。風でゆれる髪も、キラキラしている。まぶしい。あまりにまぶしくて、目が眩みそうだった――。

 目が眩んだあのときの光景が、唐突に脳裏によみがえる。
 舞台上でギターを弾く姿がまぶしかった。まぶしすぎて、涙がこぼれた。はじめて会った日、純粋に、ギターを弾く姿を見てみたいなと思ったはずなのに。
 潮風が肌を刺すように冷たかった、冬みたいな三月。あたしは、なにもない十八歳だった。まだなんにも知らなかったあの日のあたしは、ギターケースを背負った背中を追いかけてしまった。
 考えなしにただ、背中を追いかけた。煙草の煙に混じった香水の匂いは、ちっともやさしくなんかなかった。それでも、追いかけた。声がすきだった。名前を呼んでくれた。きっとそんなものに意味なんかなかったのに、あたしは、ばかみたいに泣けてしまって――。

 ――おにいさんの名前なに?

 ――慧太。

 ――けーた?

 ――うん。

 ――けーた。

 歌うように何度も繰り返した名前。
 どういう字で書くのだろう、と思ったことはあった。でも、ほんとうは、知らないままでもいいと思っていた。
 けーた、と呼ぶのがすきだったから。けーた、と呼んだら、なに、と無愛想に返ってくるのも、あたしはずっと、ずっとすきだった。

「岡部さん……?」

 記憶を、自分の心を、今更のように思い出す。
 そうだ、もうすべて今更なのだ。おわりを口にしたのはあたしだ。だからもう、思い出さなくていいのに。
 思い出したくなんか、ないのに。

 (……あ)

 あ、と思ったときにはもう遅かった。
 何気なく触れた頬は涙で濡れていて、日向くんは驚いたような顔であたしのことを見ていた。
 ああ、だめだ。泣いたらだめだ。もう泣いてるけど。
 手の甲で目元を擦る。ごしごしと擦ってみても、次から次へと涙があふれてくる。
 どうして。あの夜涸れたはずなのに、どうして、どうしよう、とまらない。
 こんなのだめだ。だって、日向くんがいるのに。今日はちゃんと楽しかったのに。ちゃんと笑えていたはずなのに。どうしよう、どうしよう――。

「……っ」

 こんなはずじゃなかったのにな。
 あたしは、いつも間違ってばかりだ。

「日向く、ごめ、ご、ごめんなさ……」
「……謝らないで」

 お願い、と言って、日向くんはあたしの体をぎゅっと抱きしめた。
 日向くんの声は泣きそうだった。あたしのせいだ。せっかくつれてきてくれてたのに、ごめんね。カッコ悪くて、ごめん。

 遠くで閉園を告げるアナウンスが聞こえた。
 日向くんはもうなにも言わないで、あたしを抱きしめ続けた。抱きしめる力が思ったよりも強くて、腕の中で泣きながらあたしはなんだか驚いたのだ。
 日向くんが誰かを抱きしめるとき、こんなふうに抱きしめるなんて、知らなかった。

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