番号とアドレスを登録した日、うれしさのあまり、もうこのまま死んでもいいと思った。
 はじめてメールを送って、返ってきたときは、ろくに内容も見ないうちからそのメールを保護にした。
 待ち受け画面は、こないだ俺が撮ったパンダみたいな模様の猫の写真。同じ写真をメールで岡部さんに送ったら、岡部さんは「待ち受けにする」と言ってくれた。それを真に受けて、ついこの写真を設定してしまったのだった。岡部さんがほんとうに待ち受けにしているかもわからないのに。

「もしもし……」

 かけた番号は、思ったよりすぐに繋がった。
 電話口は静かで、彼女の息づかいが伝わってくる。俺の言葉のあとに、少しの間を置いて返ってくる岡部さんの声。ちょっと舌足らずな彼女の声で、日向くん? と呼ばれる。

「あ、日向です。すいません、大丈夫ですか? いま……」
『……うん、大丈夫だよ。でも日向くんは大丈夫なの? 学校じゃないの?』
「あっ。……えっと、昼休みです」

 思わず嘘をついた。けど岡部さんは疑いのない声で、そっか、とだけ言う。

「突然すいません。ほんとは会って話したいんですけど……でも今日は俺も岡部さんもシフト入ってない日だし……。あ、次会える日待てばいいんですけど、でも、今、話したくて……」

 うまく言えない、途切れ途切れになってしまう俺の言葉。ああ、心臓がうるさい。落ちつけ、と自分に言い聞かせる。
 
『……うん、いいよ。なに?』

 ぽつりと岡部さんが答えた。
 不安になるくらい、静かな口調だった。

「……元気、ないですか?」

 思わず訊ねた。しかし、岡部さんは黙っている。

「……岡部さん?」
『……だいじょぶ。ずっと寝てて、起きたばっかりだから、ちょっとぼうっとしてるんだ』

 小さな笑みを交えるように岡部さんは言った。電話口の向こうでも、きっと岡部さんは笑っているのだろう。でも、それを想像した俺は胸がつぶれそうに痛んだ。
 だって、岡部さんはいま、泣きそうに笑っている。顔を見なくたって、声色ですぐにわかってしまった。

「……行こう」

 理由を問うより、気持ちが動いた。

「岡部さん、動物園、行こう。この前メールで『行きたい』って言ってましたよね。って、ほんとは、昨日誘うつもりだったんですけど……」

 余計なことまで口走ってしまった。
 自分の気持ちが急いでいるのが、痛々しいくらいにわかる。一回落ちつくために、息を吸って、吐いた。視線を上げる。空は青く、澄んでいる。大丈夫だ。

「……俺がつれていきます、動物園。本物のパンダ見に行こう。ライオンもキリンも、ウサギも、ぜんぶ。岡部さんが見たいものぜんぶ、見に行こう」

 俺がいるから大丈夫だって、思ってほしい。
 俺は十七歳で、岡部さんより年下で、高校生で。大人なあの人みたいには今はなれないけれど、でも、それでいい。
 なんでもする。君が笑ってくれるなら、俺ができること、ぜんぶするから。

『……うん』

 長く感じた沈黙のあと、声がたしかに耳に届いてくる。

『行きたい』

 あ、笑ってくれた……。
 声だけでわかってしまう、俺のすきな、彼女の笑顔だった。

 ケータイを仕舞う頃、ちょうどいいタイミングで鐘が鳴った。
 次の授業なんだっけ、と俺は今更考える。思い出したように“高校生”がはじまる。
 教室へ戻る途中、階段の踊り場の窓から、裏庭の花壇が見えた。

(あ。パンダ……)

 黒い毛で囲われたまるい目とかち合った気がして、思わず笑ってしまった。
 と、ポケットに仕舞ったばかりのケータイが振動した。慌てて手に取る。

『おい、サボってんなよ。現実逃避か!』

 電話に出るなり開口一番、ヒロのそんなセリフが耳に飛び込んできた。

『次の体育、バスケだかんな! 三分以内に来い! 今日の試合負けたほうラーメン奢りねっつっただろおまえ!』
「えっ!? そんなこと言ったっけ、俺」
『忘れたのかよ。フラれたショックで』

 さらっと言われる。
 俺はその言葉を合図に、なにか吹っ切れたような気持ちでケータイ片手に走り出した。
 ああ、教室まで戻るのめんどくさいな。もう直接体育館行こうかな。ジャージに着替えてすらないけど。制服だけど。三分以内なんてぜったい無理だけど。いいや、怒られても。

「フラれてないし!」

 叫ぶように告げて、通話を切った。
 駆け出した足はとまらない。体育館へ走っていく。
 まだフラれてなんかない。そもそも伝えてもいない。まだ何ひとつ終わっていない。できることはぜんぶするって、決めた。
 彼女の目を見て、俺は、岡部さんにすきって言いたい。

- 80 -

prev back next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -