話したいことはたくさんあるのに、口を開けば、そのひとかけらさえも言えなくなった。

 ――遥は、岡部サンのどこがそんなにすきなわけ? なんでそこまで惹かれてんの?

 そんなことあっさり口にできるなら、もうとっくに口にしている。本人に。



 一階の渡り廊下は人気がない。美術室が近いから、かすかに絵の具のような匂いがする。
 この場所まで俺を連れてきた目の前の彼女は、突然すみません、と礼儀正しく頭を下げた。栗色のふたつ結びが猫のしっぽのようにゆれる。

「あの、日向先輩……わ、わたしのことなんて知らないと思いますけど……」

 今まで似たようなシーンを何度も経験してきた。
 相手は顔見知りであったり、今みたく、申し訳ないけれど知らない子だったり、様々だった。けれど、相手が誰であれ呼び出されることにはいつもドキドキしたし、うれしかった。
 でもどうしてか、今は違う。
 俺は今、目の前にいる彼女と向き合うことを、辛いと感じていた。

「いきなり呼び出したりして、ほんとにごめんなさい」

 ごめんなさいなんて言わなくていい。
 謝罪の言葉に、俺も彼女に対して申し訳なく思った。
 真っ赤な顔を見ていると胸が苦しくなってくる。体の前でぎゅっと組まれた小さな手が細かくふるえている。それを垣間見て、大丈夫だよ、と声をかけてやりたいけれど、俺にはそんな資格、これっぽっちもないのだ。
 目の前の彼女に対してとても失礼なことを、今の俺は感じていた。
 岡部さんといっしょにいるときの俺は、もしかしたらこんなふうなのかな、なんてことを。岡部さんの目には、俺は、こんなふうにうつっているのではないか――。

「わたし、日向先輩と同じ中学だったんです。日向先輩、バスケ部でしたよね? 試合とか、けっこう観に行ったりしてて……。部活じゃなくても、先輩いつも楽しそうに笑ってて、わ、笑った顔が、すきだなって思って、あ、あの、それで、あの……」

 真っ赤になっているのが自分でもよくわかって、それが更に恥ずかしくて。言いたかったことがなんだったのか、それすらわからなくなって。
 でも、伝えなくてはいけないことがあるのだけは、わかっていた。

「先輩、わ、わたし、あの、あの……」
「……うん」

 俺にはそんなことを言う資格なんて、これっぽっちもないのに。

「聞いてるよ」

 そう言って、ふるえる彼女を見つめた。

(――あ)

 そのときふいに、思った。
 思い出した。
 俺は、岡部さんの俺を見つめてくれる目がすきだ。たまらなく、すきなんだ。
 俺が何か口にするとき、岡部さんは、いつだってじっと俺を見つめていた。ちゃんとそこにいて、どんなに拙くても待ってくれていて、やっとのことで出た言葉がどんなにくだらないことでも、岡部さんは応えてくれた。
 うれしかった。でも、泣きたくなるほど自分が情けなかった。
 いつかちゃんと伝えられたらって、思っていたのに――。

「……日向先輩」

 キラキラとした黒目がちな目が、はじめてちゃんと俺のことを見た。

「先輩、わたし……」
「うん」
「日向先輩のことがすきです」
「……うん」

 目の前の彼女は俺じゃない。
 俺は、こんなふうに、ほんとうに伝えたいことはまだ何も言えてない。
 微かな絵の具の匂いを吸い込む。瞼を一度だけ閉じ、ひらいたその目を彼女へと向けた。

「ごめん」

 彼女は変わらず、俺を見ていた。

「俺、すきな子がいるんだ」

 話したいことはたくさんある。
 でも、ほんとうに伝えたいことは、たったひとつしかなかった。

「……先輩、聞いてくれてありがとうございました」

 そう言って向けられた表情は、何にもとらわれないような、笑顔だった。
 いい子だな、と思った。なんで俺のことなんかすきになってくれたんだろう。
 栗色のふたつ結びが、午後の陽を受けてやわらかくゆれながら視界から遠くなっていくのを、ただ見送った。

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴りやんでも、俺は未だに人気のない渡り廊下にいた。
 壁に背を預け、その場にゆっくりとしゃがみ込む。

「…………」

 スラックスのポケットに手を入れる。と、指先が硬質にふれた。
 ポケットから引っ張り出したケータイを、耳に当てる。

「……もしもし」

 胸が痛い。なんだかまた泣きそうになっていた。
 まだ泣くな、俺。まだ、なにひとつ終わっていないんだから。

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