昨日のあの人のことは知らない。
 はじめて見た顔だった。まだ若そうだったけれど、少なくとも俺と同じ高校生には見えなかった。あの人が岡部さんにとってどういう人なのか、俺はなにも知らない。
 細身で、そのわりに手が大きかったのを憶えている。あの人の手が岡部さんの小さな手を掴んだとき、一度だけ、目が合った。
 そのとき、わかった。年齢も含めて、彼が俺よりも“大人”であること。
 俺にないものを、俺が今最も欲していて、でも今の俺にはぜったいに手に入らないものを、あの人はもっているのだということ。
 それは、たとえば、俺が煙草を吸って香水をつけたって、俺が望んでいるものにはならない。つまりないものねだりだ。
 なにせ俺ときたら、近くの飲食店に誘うのも、夜道を送るのも、普段ふつうに話しかけるのでさえいっぱいいっぱいになってしまう。
 恋愛下手、とミーちゃんは言ったけれど、その通りなのだ。そしてその事実を自覚したのもつい最近だ。だって、当然じゃないか、たぶんこれが初恋なのだから。

(あの人は、きっと違うんだろうな……)

 瞼の裏で、もう何百回と再生された昨夜の映像がリピートされる。
 あんなに容易く、俺の目の前で岡部さんの手を引いていった彼は、こんなふうに自分の不甲斐なさに打ちのめされたことなんて、きっとない。

「……あのさー」

 ややあって、ミーちゃんの声が降ってくる。

「遥は、岡部サンのどこがそんなにすきなわけ? なんでそこまで惹かれてんの?」

 キン、と鼓膜を突くような音が鳴った気がした。
 久しぶりに瞼を上げると、光が一直線に飛び込んでくる。あまりのまぶしさに目が眩んだ。
 目を眇めながら見やった窓の外、十二月の青い空を、飛行機が飛んでいくのが見えた。
 銀のくじらのように空を游ぐそれをぼうっと眺めながら、ミーちゃんの今更のような言葉について、考える。
 どこがって。なんで。なんでって、なんでだろう――。
 ふわふわしたばかみたいな俺の思考は、青空に浮かぶ雲にもなれずに胸の底のほうに落ちていく。
 たいした答えも浮かばずに、頭に浮かんだのは、岡部さんがあの猫みたいなまるい目で、俺をじっと見つめている姿だった。

「――ハル、」

 降ってきた声は、ヒロの声だった。
 再び頭を小突かれた感覚に顔を上げると、小さなペットボトルが視界に入った。
 あ、紅茶花伝……。
 購買で売られているパック飲料と違ってペットボトルってちょっと高いのに、ほんとうに買ってきてくれたんだ。

「ハル、呼んでる」

 あたたかいペットボトルを受けとってお礼を口にするより先に、ヒロがそう言った。きょとんとする俺に、ヒロは続ける。

「あれたぶん、後輩。おまえに話あるってよ」

 後輩。話。ヒロの言葉を頭で咀嚼して理解するのに、なんだかずいぶんと時間がかかった。
 ヒロが、ん、と向けた視線を追ってみる。休み時間で教室は内も外もガヤガヤと雑然としていたけれど、ヒロの言う“後輩”というのはすぐにわかった。 教室の後ろの出入り口に、所在なさげにうつむいている女の子が立っていた。緊張しているふうな彼女の空気が、そこだけ浮かび上がって見える。

「タイミングいいんだか悪いんだか……」

 苦笑混じりにミーちゃんが言う。
 俺は席を立ちながら、まだ少しぼうっとしていた。俺を見つめるすきな女の子の目を、こころに貼りつけたままで。

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