けーたに手を掴まれて、夜道を歩いていた。
コンビニが見えなくなってから、あたしは今さら日向くんのことを思い出した。日向くんを置き去りにしてしまった。
そういえば、どうしてあたしはこんなふうにけーたと歩いているのだろう。どうしてけーたが来たのだろう。そう思いながら、あたしは何も訊けないでいた。呆然と、子どものようにけーたに手を引かれている。歩く振動で背中のギターケースがゆれるのを、ただ見ている。
「……さっきの誰」
ふいにけーたが言う。あたしを振り向かないままで。
「……さっき、の」
「高校生? 制服着てたけど」
「うん」
「同じバイトのやつ?」
「うん……」
声は淡々としていた。いつもと変わらない会話のような気がした。
でも、と思う。あたしたちの“いつも”って、なんだろう。
「……けーた……」
小さく名前を呼んだ。けーたは振り向かない。夜の空気を割くように歩き続ける。歩幅が違うから、あたしは時々足がもつれそうになる。掴まれた手が痛む。力が強くて、痛い。もう一度呼びたいのに、あたしの声は水のなかにいるみたいに泡になってしまう。
けーた、けーた。手が痛いよ。歩くの速いよ。けーた、まってよ。ねえ、けーた……。
心のなかで何度もけーたを呼んで、唇を噛んだ。
けーたに振り向いてほしいけど、けーたが振り向かないでよかったと思った。泣きそうな顔をしているのが、自分でも情けないほどにわかっていたから。
薄暗い部屋のなかは、外の温度と同じくらいひやりと寒かった。カーテンが開きっぱなしの窓からは月明かりがこぼれている。
けーたは、部屋に入った途端乱雑にギターケースを下ろした。フローリングの床にゴトンと落ちた鈍い音が、静かな部屋に響く。
一度離れた手がまた掴まれると、ほとんど引っ張られるように部屋の奥へつれていかれる。ソファの前で手が大きく動いて、バランスを崩してそのまま体が沈んだ。
すべての音が消える。耳鳴りがするほどの静寂だった。こんなに近くにいるのに、けーたの呼吸すら聞こえない。押し潰されそうなほど苦しくて、冷たい沈黙。
色素の薄茶色の目が、あたしを見下ろしている。掴まれた手はソファに縫うように押しつけられていた。
「……けー、た……」
痛い。こわい。
けーたは、何も言わない。でもその目は、怒っている気がした。
はじめてけーたと体を重ねた夜のことが脳裏をよぎる。あの夜も、抱きしめられたあと、こんなふうにソファに押し倒された。あのときとほとんど同じシーンなのに、でも今は感じるものがまったく違う。責め立てられているような空気に、息ができなくなる。手が痛い。こわい。逃げてしまいたいのに、体が少しも動かないのだ。
こんなのは、知らない。
「……メール」
唇が、小さく動く。
「あいつと、してんの?」
息がかかるほど間近で発せられた言葉に、反応ができない。今何を訊かれたのかすら頭が追いつかない。
あたしが黙ったままでいるのを、けーたがどう受けとったのかはわからない。冷たい表情が、かすかに歪んでみえた。
「……っ」
ギシッと掴まれた手に力が込められる。痛みからあたしは息を詰めた。
けーたが、あたしの首筋に顔を寄せた。瞬間、鋭く走る、あの痛み――。
(ああ、この前といっしょだ)
あの赤い痕が、まるでけものに噛まれたような痕が、閉じた瞼の裏によみがえった。
(痛い……)
痛い。痛くて、いたくて、惨めだ。なんにもできない。なにもないあたしだ。けーた、けーたも、あたしのことおいていくの。あたしがばかだからいけないんだ。ぜんぶぜんぶ、あたしがばかだから。けーたのあとを、ばかみたいに追ったりしたから。だから、こんなにいたくて、惨めだ。あたしはなにひとつだって変われないんだ。
でも、でも――。
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