「……岡部さん」

 今度は内緒話をするような声で、日向くんがあたしを呼んだ。

「なに?」
「……あの、は、話したいことがあるんですけど」
「うん? なにかな」
「えぇっと…………じゅ、十分だけでいいんで! ちょっとだけ、付き合ってもらっていいですか……?」

 と、なんだかとても一生懸命に訊かれたら断れない。

「いいよ」

 そう答えたら、なぜだか少しほっとした。
 ああ、あたし、あの部屋に帰るのが憂鬱だったんだ。そのことにすぐに気がついた。
 ぱっと顔を明るくした日向くんは、ありがとうございます、とうれしそうに言う。あたしもうれしくなってしまう。
 人や車の邪魔にならないよう、水色の自転車の傍らに二人でしゃがみこむ。距離は近い。それでも身長差があるので、日向くんは小首を傾げて覗き込むようにして、あたしを見る。

「コート、買ったんですね」

 そう言われて、あたしは自分の服に目を落とした。紺色のダッフルコートはまだ自分のにおいよりも、新しいにおいのほうが強い。

「うん、昨日買ったんだ」
「よかった。岡部さんいつも薄着だから風邪引くんじゃないかって、俺ちょっと心配だったから」
「えっ、そうだったの? 心配かけてごめん」
「しょうがないから許します」
「ふふふ。ありがとうございます」

 冗談を言って笑い合う。それでさえ、あたしたちはなぜだか内緒事のようにひそやかだった。
 まるで――そうだ、小さい頃、仲がよかった近所の友だちとすきな男の子のことを話し合った光景に似ている。
 うみちゃん、だれにもいっちゃだめだよ。うん、いわないよ。ないしょだよ。うん、ないしょにするよ。
 こんなふうにしゃがみこみながら、くすくすひそひそと話し合った記憶がある。
 保育園からずっと仲よしだった友だち。中学校に上がる前に遠くへ引っ越してしまった。元気かな。あのこは、今もあたしのことを憶えているかな……。

「岡部さん」

 少し改まった呼び方に我に返る。
 「話したいこと」を話すのだろうか。つい違うことを考えてしまっていたので、今度はちゃんと日向くんの目を見つめて言葉を待った。

「あ、あの……」
「うん」
「今度俺と……その……」
「うんうん」
「…………か」
「うん、うん?」
「…………かわいいですね、そのコート」
「コート」

 もう一度、コートへ目を落としてみる。そんなにいい感じなのだろうか。実はちょっと予算オーバーでかなり迷った末の購入だったのだけど、買ったよかった。
 少しはにかみながら、ありがとう、と素直にお礼を述べると、日向くんは突然脱力するように膝に顔を埋めてしまった。深いため息まで聞こえてきたので、あたしは目をまるくする。

「日向くん? ど、どうしたの? また心臓が痛むの?」
「……岡部さん!」
「はっ、はい」

 間髪入れずに勢いよく顔を上げた日向くんに思わずたじろぎつつも、あたしはそれに応じる。日向くんは赤い顔で、でも意を決したようにまっすぐにあたしを見ている。

「あの! 今度俺と……」
「にゃん」

 そのとき、鳴き声が聞こえた。
 かすれた声は外で生きている猫の声。視線をやると、閑散とした駐車場にはこの場所を自分の縄張りにしているらしい、白黒のぶち模様の猫の姿があった。
 でも、あたしが目を奪われたのは――。

「岡部さん……?」

 夢をみているようにぼうっとする。猫の姿も、日向くんの不思議そうな声も、周りの景色と音がとても遠くなる。視線の先の光景だけが、ただただ鮮明に生きている。
 ゆれる、くすんだ茶色の髪。黒いジャケットを着た細い体の線。重そうなギターケース。
 いつだって無愛想で不機嫌そうな同居人。なんにもない、ひとりぼっちのあたしを拾ってくれた。

「けーた……」

 名前を呼んだのは無意識だった。
 その名前を、ずっとどんな字で書くのかわからないままでいた。訊かないのは、こわいからだ。彼自身の声でそれを知ってしまったら、あたしに刻まれて、そうしたら、もうずっとずっと忘れられなくなりそうだったから。
 ばかだな、と思う。
 そんなことはきっとなんの意味もない。
 だって、もう十分刻まれてしまっている。

 目の前で流星のように光った右耳のピアス。
 掴まれた手に、けーたのあってないような体温を感じた。

(冷たい手……)

 あたしたちは手を繋いだこともないのに、あたしはこの体温を知っていると思う。どうしてだろう。ああ、そうだ。夏、あたしが熱を出したとき。けーたがあたしの額に手をおいて、不機嫌そうな顔で熱を測ってくれたんだ。
 たしかにあったはずの、今はもう遠いいつかの日常を思い出したら、とてもとても泣きたくなってしまった。

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