「……けーた……」
ほとんど無意識に名前を呼んでしまったけれど、声は思いのほかかすれたもので、本人に聞こえたどうかはわからない。
ドアの前に佇むけーたは、寝起きのせいか、ずいぶんぼんやりとした顔でこちらを見ていた。
(けーた、こんな顔してたっけ……)
ふと、あれ? と気がついた。
けーたの右の頬には、見慣れない大きな湿布が貼ってあったのだ。
「……ほっぺ、どうしたの?」
「……メール?」
お互いの声がかぶった。
けーたは黙ってこちらを見据えている。
「……うん」
けーたに答える様子が見られなかったので、あたしが先に小さく頷いた。
けーたの視線はあたしのケータイに向けられていた。咄嗟に、見られたくない、と感じて、あたしはケータイを自分の胸に押し当てるようにする。
見られたくない。知られたくない。けーたに宛てたメールのことはもちろん、日向くんとのやりとりも、なぜだか知られたくなかった。
言葉のない時間が過ぎてく。鼓動が速くて、息が苦しい。
もともと、けーたとあたしは、いっしょにいても会話はそれほど多くはなかった。でも、こんな気持ちに襲われたことなんてなかった。沈黙がずしりと重たくて、ここから逃げてしまいたいような。
けーたが何を言うのかこわい。あたしを見て何を思っているのかがこわい。今にも「出ていけ」と言われるような気がして、こわい。
(こんなの、ばかみたいだ)
この部屋を出ていくためにバイトをはじめて、その旨を綴ったメールを今送ろうとしていたのに。自分の矛盾している心には、とっくに気づいていた。
きっと五分も経っていないのだろうけど、ずいぶん時間が経ったように感じられた。
やがて、けーたは黙ってあたしの前を通り過ぎていった。うつむいているだけのあたしの耳に、浴室のドアが閉まる音がやけに響いて聞こえた。
思い出したように起動したままのケータイを見ると、画面は真っ暗になっていた。
「岡部さん?」
現実へ引き上げられるような感覚にはっとした。
顔を上げると、日向くんがきょとんとしてあたしのことを見下ろしていた。
「だ、大丈夫ですか……? 今すごくぼうっとしてましたよ」
日向くんはそう言いながら心配そうに顔を覗き込んでくるので、あたしは慌てて首を横に振った。
「だいじょうぶだよ。ごめんね、帰ろう」
できるだけ明るい声で答えた。
ちゃんと笑えているだろうか。今いる場所が照明の明るい店内ではなくて、外の、夜の暗さのなかでよかったと思う。
夜十時。バイトを終えて、日向くんと店を出たところだった。
あたしの言葉にとりあえず安堵の表情を見せてくれた日向くんは、駐輪スペースに停めてある水色の自転車の鍵をズボンのポケットから探りはじめた。
日向くんは、夜道は危ないからと、わざわざ自転車を押しながらあたしをアパートの近くまで送ってくれる(一度だけ荷台に乗せてもらったけど)。だけど今日はひとりで帰ろうと思った。余計な心配をさせて、その上送ってもらうだなんて申し訳なかった。
日向くんの言う通り、今日はなんだかぼうっとしていて、バイト中も小さな失敗が多かった。その度に日向くんがフォローしてくれたのだ。思い返すとさらに申し訳なさが胸に募った。
「日向くん」
「岡部さん」
今日は送ってくれなくていいよ、と伝えるために声をかけたら、日向くんが唐突にあたしを振り向いた。お互いの名前を呼んだ声がかぶる。日向くんは少し恥ずかしそうにして、すいません、と謝った。
「岡部さん、先にどうぞ」
「え、ううん。いいよ、日向くん、なに?」
「あ、えっと……朝の、メールのこと、なんですけど」
たどたどしい口調で言う日向くん。
朝のメール。ああ、そうだ。今朝、日向くんからパンダ猫の写真をもらったのに、まだ直接お礼を言えていなかったのだった。
「そうだ。写真ありがとね。パンダ猫かわいかったね」
「あはは、喜んでもらえたならよかったです」
「うん。ケータイの待ち受けにするよ」
「えっ! ほ、ほんとですか?」
「うん。いいかな」
心なしか表情を高揚させて、日向くんがあたしに何度も頷いてみせる。写真をもらったのはあたしなのに、日向くんのほうがうれしそうなのが不思議で、おかしかった。
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