今朝もいつも通りソファの上で目が覚めた。
なにひとつ変化のない部屋の景色、空気。そして、あたしの現実。ソファに横たわったまま、それらに安堵するのと同時に少しだけ気だるさをおぼえた。
今日は夕方からバイトがある。昨日から風邪で休んでいるパートさんの代わりを引き受けたのだけど、しかし、失敗した。いつもより遅い出勤なので時間に余裕がある分、なんだか億劫になってしまった。
「いきたくないな……」
バイト先のコンビニは、仕事は覚えることが多くて大変だけど、店長もバイト仲間もみんなやさしい人たちで、つらいと感じたことはほとんどない。だのに、今日はどうやら「億劫な日」らしい。あたしは目覚めたのにも関わらず、いつまでもソファの上でだらだらとした思考を繰り広げる。
と、すぐそばで振動音が鳴り響いた。
驚いたあたしの体は毛布のなかでおおげさに跳ね、危うくソファから落下するところだった。軽く冷や汗をかいて、視線を向けると、ローテーブルの上のケータイがガタガタと音を立てて振動していた。振動はすぐに止んだので、たぶんメール。
ようやく体を起こして、ケータイへ手を伸ばした。ディスプレイにはやはり【メール1件】の表示があった。
From:日向くん
Sub:おはようございます!
朝っぱらからメールしてごめんなさい!
寝てたら悪いかなって思ったんですけど、我慢できなくて……。すいません。
学校にいました。
パンダみたいで可愛くないですか? 謝罪の言葉が多いメールに思わず笑い、添付された画像を開いてみる。
「……パンダだ……」
ほんとうに、まるでパンダのように両目を黒い毛で囲われた猫の写真だった。学校の敷地内らしいレンガ造りの花壇を背景に、ちょっとまぬけな顔をしたパンダ猫が写っていた。
「かわいい」
画像をすぐに保存して、返信を打つ。
To:日向くん
Sub:おはよう。
写真どうもありがとう。
起きてたから大丈夫だよ。
ほんとにパンダみたいだね。かわいいね。すぐに保存しちゃったよ。
なんだか本物のパンダも見たくなったよ。今度動物園に行ってみようかな。
日向くんはこれから学校なんだね。がんばってね。
あと、今日もバイトがんばろうね。 文面を一度読み直してから送信した。画面のなかでふわふわとゆれる白い封筒をぼんやり見送る。
「……朝ごはん、食べなきゃ」
不思議と、さっきまでの気だるさがずいぶん軽くなっていた。日向くんのおかげかもしれない。
バイト先の人たちはみんな話しやすいけれど、日向くんとはとくに話していて楽しいと思う。唯一年下だからかもしれない。気楽に会話ができるのだ。それに、話した後はいつもちょっとだけ元気になれる。
“がんばろうね。”
今、送ったばかりのメールの一文を反芻する。
そうだ。あたし、がんばらなきゃいけないんだ。あたしは早くお金を貯めなければならない。ひとりでも歩いてゆけるように。
未送信メールのフォルダを開いた。
ちゃんと宛先まで書いてあるのに、未送信のまま燻っているメールが一件ある。
送信ボタンを押してしまえば一瞬で、あのドアの向こう側にいる同居人へメールが届くのに。
「…………」
今、送ってしまおうか。
そっと指を動かす。
どくどくと鼓動が速くなっていくのを感じる。あとは送るだけなのに、それを躊躇している自分がいる。この生活を終わらせなきゃ。でも、まだ、と思っているあたしがいるのだ。
あたしがこのメールを送らなくたって、いつか“終わり”は訪れる。でも、だけど、あたしがまた惨めになるくらいなら、またそんな思いをしなくちゃならないのなら、あたしから終わりを告げなきゃならないのだ。
画面上に問われる。
送信しますか?
決定を選択して、あとは、指先に力を込めるだけ――。
「……っ!」
びくっと肩が跳ねた。心臓も一度、大きく音を立てた。
メールを送ったからじゃない。寝室のドアが開いたからだ。
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