昔、猫を飼っていた。
飼っていた、という言い方は、きっと正しくはないのだろうけど。
あれは、俺がまだ小学生の頃だった。明るい茶色と焦げ茶色のまだら模様の猫が、実家の庭を横切るのをよく目にしていた。
「お、ニャンコがいる」
八つ年の離れた、当時高校生だった兄貴の声につられてリビングから庭へと繋がる窓に目をやれば、あの猫がいた。まだらの猫だ。
「ニャンコちゃん、煮干し食うかな?」
「兄ちゃん、餌付けするなよ。こいつうちの猫じゃねえんだから」
「なんだよ、慧太クールだな。おまえガキなんだからもっと喜べよ。わ〜ニャンコだ〜つって」
「ぜったい言わねえし」
思いきり顔をしかめる俺をよそに、兄貴は鼻歌交じりにあっさり窓を開けてしまった。夕飯の味噌汁の出汁に使うはずの煮干しを、猫へ差し出している。
「慧太も見てみろよ。ほら、かわいいよ」
大人の姿で子どもの俺よりはしゃぐ兄貴を見て、どっちがガキだ、と言ってやりたい。
胸のうちでは悪態をつきつつ、けれど結局俺はいつもこの兄貴には逆らえなかった。笑顔を絶やさない滅多なことでは怒らない人ではあったが、それがまた俺にとってはこわくもあったから。
俺は渋々、兄貴の隣にしゃがんだ。兄貴の手から煮干しをかじる猫が、すぐそこにいた。
いつも窓から見ているだけだったその猫は、改めて近くで見たら意外とでかく、脚の太さはなんだか野生的だった。
煮干しを食べ終えた猫は、かすれた声でニャアと鳴いた。
「はは、ニャーだって。マジかわいいんだけど。うちで飼っちゃおっか」
「ダメだろ。母さん、猫アレルギーだし……」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
そっかあ、とつまらなそうに兄貴がぼやき、大きな掌で猫の頭をやさしくなでた。
猫はずいぶん人に慣れていた。首輪のない野良なのに、人間になでられても逃げないなんて。
きっと、ここでされているように、いろんな家を回り回っているのだろう。他の家でも同じように、こんなふうになでられたり、飯をもらったりして生きているのだ。
「たくましいな……」
「慧太、難しい言葉知ってるじゃん」
「それぐらい知ってるし」
「ふうん」
愉快げに頷いてみせる兄貴は、笑う口元が猫によく似ている。
ふいに、猫は兄貴の掌からすり抜けて、俺たちからくるりと背を向けた。長いしっぽをゆらゆらさせながらその姿が遠退いていく。
もう一度、たくましいな、と思う。それからどうしてか、少しだけうらやましいとも思った。
「じゃあさ、ナイショにしよう」
唐突に兄貴が切り出した。
「なにを?」
「母さんにはナイショでさ、あのニャンコが家に来たら、飯食わして、頭ぐらいなでてやろうってこと」
口角をいたずらに持ち上げてそんな提案した兄貴が、猫をなでた掌で今度は俺の頭をくしゃっとなでた。
もう十年以上も昔のことだ。それでも時々、ふいに思い出すことがある。
なぜだかは、わからない。
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