長い長いと思っていた夏休みは、けれど気がつけばあっという間に過ぎてゆく。友だちと遊ぶ予定もないので、日々のほとんどをバイトで潰した。
八月三十日。居間のカレンダーにこっそりつけた赤丸。今日はバイトのシフトを入れていない。街へ出かけることにしていたからだ。貯まったお金で、念願のミュージックプレーヤーとCDを買うのだ。
【お母さんへ。街へいってきます。夜には帰ります。ごはんは冷ぞう庫にあるので、チンして食べてください。海未より】
メモを卓袱台に置いて、家を出た。
まだ朝であるのに外は夏の陽射しがたっぷり降り注いでいる。暑い。でも、湿気が少ない風が心地よかった。
お出かけ日和だ、と思う。お気に入りの、水色のストライプ柄のワンピースに身を包んだあたしは、胸を弾ませながらバス停までの道を歩いた。
バスと電車を乗り継いで、およそ二時間かけて街へゆく。なんにもないこの場所とは違って、街へゆけば電気屋もCDショップもなんだってある。
と、そんなふうに浮き立っていた気持ちは、街に近づくにつれ変わっていく車窓の景色にすっかり萎縮してしまった。
およそ二時間後、降り立った場所の人の多さにびくびくしながら、あたしは波に流されるように危うい足どりで歩き出した。
駅の改札を出ると、すぐ目の前に家電量販店の看板が見えたので、とりあえずほっと息をつく。
「なにかお探しですか? 先日発売されたばかりの新製品でしたらこちらにございますよ。若い方に非常に人気が高いんです。××という機能がついてまして、機械操作が苦手な方でも使いやすくて──」
二階のオーディオコーナーでミュージックプレーヤーをまじまじと見比べていたら、中年の男の店員さんがやってきて、親切にいろいろとおしえてくれた。
便利な機能がたくさん付いた最新のプレーヤーをおすすめされたけれど、ふと、その隣に置かれていたものに目が留まった。宮田さんが持っていたプレーヤーと、たぶん同じ機種。
「これ、ください」
さすがに、まったくのおそろいは恥ずかしい。だから宮田さんのものとは色違いの、水色のプレーヤーを選んだ。
会計をしているとき、勇気を出して店員さんに最寄りのCDショップの場所を訊ねたら、なんと運良くこのビルの最上階にタワーレコードが入ってるという。
「ありがとうございましたー」
そんなこんなで手に入れた、サマーセールで十パーセントオフだったYUKIのベストアルバム。
タワーレコードの黄色い袋を胸に抱いて、うれしくて、戻りのエスカレーターで飛び跳ねてしまいそうな気持ちを抑えるのが大変だった。
目的を達成したら、思い出したようにお腹が鳴った。
すっかり忘れていた昼食を、ファストフード店で済ませることにした。昼を少し過ぎているのに店内は混雑していて、三階まで上がってようやく空席を見つけた。ガラス張りの窓に面したカウンター席。ハンバーガーを頬張りながら街を見下ろして、人がゴミのようだ、と頭のなかでつぶやく。
ごはんを食べたら、もう夕方。目まぐるしい景色にようやく慣れてきたのにこのまま帰路につくのがなんだか惜しい。せっかくだから、街を散歩することにした。
こんなに人がいるのに、誰もあたしのことを知らないし、気にもとめない。
無関心で賑やかな街は、なんだかまるで夏のお祭りのよう。そのなかをただふわふわと、夢心地な魚みたいに進んでいくあたしは、たぶんちょっと浮かれていたのだ。
辺りがうっすら暗くなりはじめた頃、あたしはたどり着いた公園で疲れた足をぶらぶらと伸ばしていた。
時計台の針が六時半を指そうとしている。
帰らないと。そう思いながら、ベンチにくっつけたお尻がなかなか上がらない。延々と水を吐き続ける噴水をぼんやりと見つめる。地元の最終バス、何時だったっけ──。
「どうしたの?」
突然の声に驚いて顔を上げると、サラリーマン風の背広姿の男の人がいつのまにか目の前に立っていた。
眼鏡をかけたやさしそうな雰囲気のおじさんだった。学校に、こんな先生がいたかもしれない。
「中学生かな。もう暗くなるし、一人でいたら危ないよ。気分が悪いの?」
一瞬、自分のことを指して言ったのではないような気がした。けれど、おじさんはたしかに眼鏡の奥からあたしのことを見据えている。
大丈夫です、とあたしは慌てて首を横に振り、そして地味にショックを受けた。
あたし、高校生なんだけど……。
「お小遣い、ほしくない?」
え、と間の抜けた声が出た。
おじさんは急に周囲を気にするような素振りを見せるやいなや、こちらに顔を寄せて囁いた。
「いまきみが履いてるパンツ、僕にくれたら、一万円あげるよ」
パンツ。いちまんえん。
今朝、出かける前にお風呂に入ったことをぼんやりと思い出す。洗面所で足を通して履いたパンツ。三枚セットで、千円もしなかった安い綿のパンツ。
それがなぜ、一万円になるのだろう。それもいまあたしが穿いてるやつを──。
「あー、こんなところにいた」
どこかで聞いた覚えのある低い声がして、あたしははっと我に返った。
目の前のおじさんを押しのけるようにして現れたのは、宮田さんだった。
「兄ちゃんから離れるなって言っただろ? 変質者に襲われるぞ」
見たこともないやさしい顔で、聞いたこともない明るい声色で、宮田さんが親しげにあたしに話しかける。しかしあたしはこの状況にひどく混乱してしまって、まともに反応ができなかった。
「……あれ、どちら様ですか? うちの妹がなにか?」
まるでいまはじめて存在に気がついたというふうに、宮田さんがおじさんに向かってにこやかに訊ねた。にこやか……だけど、妙に恐ろしい。
それを彼も感じ取ったのだろうか、おじさんはなにも答えず、逃げるように足早にこの場をあとにした。
「どうして?」
あたしは、やっとのことで口を開いた。
さっき起こった出来事にいまだに頭が追いついておらず、主語がない疑問だったけど、宮田さんはあっさりと「街ぐらい来るでしょ」と、答えてくれた。答えになってない、とあたしは思う。
さっきの好青年風の姿から、すっかりいつもの気だるく暗澹とした姿に戻った宮田さんに、駅までの帰路を送られていた。陽は完全に落ちていたけれど、街はまぶしいほどに明るく、人の多さも変わらない。眠らない街とゆうやつ。
「……さっきのオヤジの気持ちもわかるけど」
あたしのすこし前を歩きながら、宮田さんがくつくつと笑いだした。
「きみ、くれって言ったらくれそうだし。パンツ」
「…………」
無事に駅前にたどり着いた。宮田さんはまだ夜の街で過ごすらしく、改札を挟んであたしたちは別れた。
じゃ、気をつけてね、とぞんざいに片手が振られたそのとき、彼から煙たいような甘いにおいがした。百合の花みたいな……。
ミュージックプレーヤーとCDが入った袋を抱えながら、混み合う電車内で目をつむる。
散々な誕生日だった。
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