五月、生理痛で体育を休んだ。
しばらく保健室のベッドで横になっていたのだけど、飲んだバファリンが効いているのか、ぎゅっと締めつけられるような下腹の痛みもおさまってきた。
「十一時……」
カーテンの隙間から壁掛け時計が見えた。十一時二十分。午前最後の授業が終わるまで、まだけっこうある。
せっかく授業中に眠っていてもいいのに、こういうときに限って目が冴え冴えとして寝つけない。ベッドだからかも。それとも、慣れないシーツのにおい。消毒のにおい。保健室って、あまりすきじゃない。
うまく眠れない。こわい夢をみそうな気がする。たぶん……。
上ジャージのポケットに手を突っ込んで、野良猫のようにそろそろと教室に戻ると、しかし中はがらんどうであった。当たり前だ、みんな体育なのだ。
あたしはぶらぶらと空っぽの教室の奥へ進む。
誰かの机の上に、ミュージックプレーヤーが置いてあるのを見つけた。銀色のプレーヤーから無造作に伸びる白いイヤホン。なんとなく、それを指先でつまみ、耳にはめてみた。プレーヤーの真ん中の大きなボタンを押すと、音楽が流れ出した。
きらめくイントロ。跳ねるような軽やかなボーカルの甘い声。YUKIの『星屑サンセット』だ、と思い、一気に胸が高鳴った。
あたしは、YUKIの歌がすきだ。YUKI本人もかわいくてすきだ。 きっかけは小学生の頃、ラジオから流れてきた『センチメンタルジャーニー』。そのとろけるように甘くてアンニュイな歌声に、あたしは一瞬でとりこになってしまったのだった。
歌の途中からはじまった『星屑サンセット』はすぐに終了し、次の曲がはじまる。今度は『joy』。どうやらこれはYUKIのベストアルバムらしい。
「……いいな……」
あたしのなかで一年前ぐらいからくすぶらせている気持ちが再燃する。
やっぱり、YUKIのベストアルバムがとても欲しい。お金ないけど。お金以前に、そもそもここらへんにはCDショップすらないのだった。
このプレーヤーの持ち主は、プレーヤーやCDをどこで手に入れたんだろう。電車に乗って街まで行ったのかな。そうかな。
電車、乗ったことが一度だけある。
ほんとうはもっとあるのかもしれないけれど、あたしが憶えているのは、一度だけだ。お母さんと手をつないで行った、桜がきれいな動物園。
晴れていた空に雲がかかって、薄暗い夕暮れ。
思いがけず学校で聴けてしまったYUKIの歌のおかげで、あたしは気分がよかった。アパートに帰り、鼻歌交じりに夕飯の支度をしていると、玄関から物音が聞こえた。
「海未。ただいま」
ふんわりと香水のにおい。たんぽぽ色の薄手のカーディガンを着たお母さんが、部屋に入ってきた。
あたしはお玉を持ったままちょっとびっくりしてしまった。一呼吸遅れて、おかえりお母さん、と言う。
「今日は早いんだね」
あたしが言うと、お母さんはふふ、とほころぶように笑う。
「そうなの。今日は海未の顔が見たくて、早く帰ってきちゃったんだ。あー、お腹すいた。お味噌汁のいいにおい、外からもしたよ」
「うん。もうできるよ」
「なんのお味噌汁かな」
「えっとね、オトーフと、たまご」
ひさしぶりに、小さな食卓に二人分の夕飯が並んだ。
ラクな服に着替えたお母さんといっしょにごはんを食べる。湯気の立つ味噌汁に口をつけて、おいしい、とお母さんが目を細めた。
「ほんと?」
「うん。海未は料理がじょうずだね。きっと、お母さんよりもじょうずだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
お母さんはにこにこしている。だから、言わなかった。あたし、最後にお母さんのごはんを食べたの、いつだっけ……。
でもべつにいいのだ。お母さんは働いているし、うちお父さんいないし、あたしとお母さんはふたりの家族だから、料理をするのはあたしなのだ。洗濯もするし、掃除も、そんなすきじゃないけど、する。
あ、そうだ、明日は燃えないゴミの日だ。
「海未、大きくなったね」
お母さんの言葉に、あたしはきゅうりの浅漬けをぽりぽりしながら、首をかしげる。
「そうかな」
「うん。海未はひとりでごはんも作れるし、もうすっかり大人だなって、お母さん思うよ」
きゅうりを飲み込み、おとな、と思う。
お母さんにとって、あたしがもう大人に見えるということが不思議だった。だって、あたしまだ、青い制服を着て学校に通っている。授業中も寝てたり、ノートのはしっこに猫のラクガキをしたりしている。
今日、生理痛で体育を休んだことをお母さんに話そうかなと一瞬考えて、いいや、とやめてしまった。
(そういえばあたし、生理だったんだ)
思い出したらまた下腹が痛くなってきた。思い出さなければよかった。
明日も体育がある。短距離走とかならいいけど、バスケはいやだ。
お母さんはにこにこしている。だからあたしはなにもかも、話すことがない。
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