四月、桜の花が散った頃。
 ふと目を覚ますと、図書室はすっかりがらんとしていた。壁掛けの時計が四時半を指している。一時間もうたた寝していたのだ。傾いた陽が、開きっぱなしにしていた写真集のページを焼いている。
 あたしは写真集を閉じ、脇に抱えて席を立った。図書室の貸出カウンターに写真集を置くと、受付けの先生はそれを一瞥して、カウンター内の引き出しからカードを一枚取り出した。

「ここに、学年とクラスを。こっちに名前を書いて」

 あたしはまだ誰の文字もない、まっさらなカードの上に鉛筆を走らせる。

 2年2組 岡部海未

 カリカリと芯の削れる音が響く。それから、耳の裏で、いつまでも波のささめく音が鳴っている。夢の音だとわかっているけど。


 ずっと高い空の上を鳥の群れが飛んでゆく。
 あいつらは、規則正しく並んでいったいどこへゆくのだろう。きっと、ここよりあたたかくてうつくしい南の島だ。

「いいな……」

 あたしが住んでいる田舎町はなんにもない。空ばかり広くて、海もない。
 物心ついたときからこの町にいるあたしは、だから生まれてこの方、潮のにおいも知らない。でもそんなもの知らなくても生きてゆけるし。海も、潮のにおいも知らないあたしは、今年十七歳になるのだった。
 いつもより重たい鞄を何度も肩にかけ直したりしながら、ボロアパートの敷地内に入る。
 アパートの裏手には銀杏の木がある。他で見かける銀杏よりもずっと細くて小さいけれど、大家さんのお気に入りなのだという。その木陰を覗いてみると、トラ猫がいた。

「ただいま」

 あたしが言うと、トラ猫はこっちを見て、ふんと鼻を鳴らした。今日もえらそうだ。こいつはいつもそうだ。それでも、鼻を鳴らしたあとにはかすれた声で、ニャアと鳴いてくれる。ニャア=おかえりなのかどうかはトラ猫のみぞ知るけれど、あたしはわりとそれで満足する。

「あのね、今日ね、図書室ではじめて本借りたんだ」

 あたしは学校に友だちがいない。なので、今日の出来事は、放課後アパートにやってくるトラ猫に話すのが日課だった。
 トラ猫は、あたしの話を聞いてくれているのかは不明だけど、三角の耳をピクピクさせたり、長い木の枝のような枯れた色のしっぽをゆらゆらさせたりして、あたしの前でじっとしている。
 まあ、じっとしているのは単に、あたしが与えたコッペパン(お昼ごはんの残り)を食べているからなんだろうけど。
 トラ猫が去る頃、あたしもアパートの部屋に帰る。

「ただいま」

 「おかえり」が返ってこないのはわかっている。癖みたいなものだ。
 部屋の奥へ進むと、六畳間のちゃぶ台の上に銀行の封筒が置いてあるのを見つけた。封のされていない中身を覗くと、諭吉と目が合った。
 封筒は、いつも月の初め頃にある。お家賃と生活費。入っている値段はだいたい同じだけど、今月はちょっと少ない。ほしいCDは買えそうもないな、とあたしは少しがっかりした。

 夕飯を作るのがめんどうだ。
 食べてくれる誰かがいないと、料理とゆうのは途端にめんどうになってしまう。多めに作ってラップをして置いておいても、翌朝そのままだと心がぽっかりと、残念な気持ちになるし。
 めんどうだ、と思いつつ、でも今日は早く帰ってきてくれるかもしれない。だからあたしは今日も台所に立つことにした。

 ごはんを食べながら、ちゃぶ台の下で借りてきた写真集を広げる。
 宝石のような青い海を眺めながらわかめのスープをすすっていると、潮のにおいってこんなふうなのかしら、とふと思ってしまって、ちょっと笑った。


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