blue18 | ナノ


 17


 北校舎3階の男子便所には誰も来ない。
 存在を忘れ去られたように、誰も。

 チャイムの音が聞こえた気がした。
 狭い個室。乾いた床。浅い呼吸を繰り返しながら、間抜けに開いたままの口からは唾液の糸が伸びている。それを目の当たりにしたら、何がどう作用したのか知らないが、またぶり返した。
 最悪だ、と思う。この瞬間を。いつも。いつも。
 何度も咳き込み、肩が震える。生理的な涙で視界が滲む。脂汗のような、だけどひどく冷たい温度の汗がこめかみを伝っていく。
 だんだん自分が笑えてくる。いっそ笑い飛ばせたら楽なのに、ちっとも笑えないのだから参る。笑うことなんて、吐くことよりかはずっと簡単なのに、どうしても、この瞬間だけは。
 不意に、滴が一つ、便器の中へ音もなく落下した。汗かと思ったら、違った。ゆれる視界を遮るようにきつく瞼を閉じた。

 俺が吐き出すものには中身がない。ぜんぶ吐き出してしまいたいのに、自分が何を吐き出しているのかまったくわからない。
 あんなに吐きたくて堪らなかったのに、泣きたいような、気だるいような、吐き出した後はいつも何か一つ見失ったような気持ちになる。呼吸さえうまくできなくなるから、もういっそのことこの場所で、このまま消えてしまいたかった。

 こういうことを考えた後で浮かぶのは、たいてい年の離れた弟の顔だった。
 「救い」なんて言葉は口に出せば途端に大袈裟に聞こえるけど、俺にとってはきっと間違いじゃない。
 安堵する。弟の存在そのものというより、兄である自分の存在を思い出すからだ。
 帰らないと。
 ゆらりと立ち上がる。見計らったような眩暈に襲われた。それからずっと足を折っていたせいで、爪先から踵まで痺れを感じた。どちらにせよ慣れた感覚だったので、構わずに、個室の扉を開けた。

「あ、」

 あ、と思った。それがそのまま声に出た。
 目が合った。そいつを知っていた。俺を凝視する黒い目。高校生にしても成人の男にしてもでかい体を、なんとか学ランに収めてる、という感じの、クラスメート。教室の一番後ろの席でいつも腕を組んで座っている彼は、黙っていても存在感がありすぎる。

「あはは、ビビった」

 笑う。笑うしかない。だって、驚いたのだ。

「こんなとこ、誰か来るとは思わなかった」

 驚いた。だけど少し考えれば決して不思議なことではないはずだった。ここは校内で、人気はなくたってれっきとした便所で、誰か来たっておかしいことはない。
 それなのに、彼がここに来て、俺はそれをようやく思い出していた。


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