彼と喧嘩した。最初は些細なことだったのに、気が付けば私は心にもないことを口走ってしまっていたのだ。
――もういい、顔も見たくない。
――そう。分かった。
「後悔の嵐…」
「もう言ってしまったんだから諦めな」
「謝りたい。でも思い出すとまだ怒りが湧くんだよね」
「我侭」
彼は、淡々と私の言葉をただ聞くだけで。それが余計に悲しくて仕方なかった。
そのまま部屋を出て行ったが、追いかけてすら来なかった彼。理不尽とは分かっていながらも苛々が募る。
「引き止めるとかしてもいいじゃん…」
「面倒くさい女」
「分かってるから慰めてくださいお願いしますマキ様」
「あたしが慰めたところでどうせあんたは浮上しないくせに」
「うっ」
その通りである。こうやって同僚に愚痴を話してみても、私の心が晴れることはない。
「あ、噂をすれば佐城くん」
「えっうそ」
彼女が指を向けたその先には、確かにいつもと変わらない彼の姿があった。
背筋を伸ばして歩くところが凛としていて好きだ。でも今は胸が締め付けられるように痛むだけ。
「なんで、あんないつも通りなの」
私はこんなに悩んでるのに。キイチくんは何でもないような顔をして、横にいた上司と話をしている。
「そりゃあ彼は公私混同するような性格でもないでしょ」
そんな風に会社でまで死にそうな顔してるのはあんただけよ。マキの言葉が胸に刺さった。
「じゃああたしもう休憩終わりだから」
「うう、はい…」
くそ、話を聞いてくれる相手すらいなくなってしまうなんて。ひらひらと手を振って彼女を送り出した。
「…!」
そのとき、彼と視線が交わる。
「え」
こっち向いてくれた。ちょっと喜んだのもつかの間、すぐに目を逸らされる。しかも挙句の果てにわざとらしく顔を反対方向に背けやがった。
む、むかつく。
露骨すぎる反応に怒りが再燃する。あんな風にすることないよね。そりゃこっちが悪いよ。そんなこと知ってる。でもあの態度はひどくないか。
ふん。キイチくんがそんな態度なら私もまだしばらく怒ってるんだからね。ばーかばーか無表情男!
地団太でも踏みたくなるくらい腹を立てていると、もう一度彼がこっちを向いた。やばい、悪口に気付かれた!?
「…ん?」
あ、ほ。
「はぁ!?」
キイチくんの唇がそう動いたのを認識し、思わず大声で叫んでしまう。そこら中に響く私の声。
「す、すみませんなんでもないです…」
じろじろと周りに何事かという目で見られ、肩身狭く謝った。うわもうなにしてんの恥ずかしい。
っていうかキイチくんのせいじゃん!睨んでやろうと顔を上げれば、
「…」
笑ってる。キイチくんが。
え、うそ。あんな顔初めて見たんですが。慌てる私に、彼は携帯を取り出して見せた。すぐにメッセージを受信する私のそれ。
『俺の顔見たくないんじゃないの』
『見たくない』
『超見てたよさっき』
『気のせいです』
『あほ』
『は!?キイチくんでしょそれは!!』
『ユキの視線のせいで仕事に集中できないんだけど』
『人のせいにしないでよ!!』
『ごめんなさいは?』
『は?』
『謝ったら許してあげる。あともれなく今夜ディナー連れて行ったげる』
なにそれ。変なの。キイチくんのくせにらしくないことしちゃって。
分かってるよ。こんな風に謝るきっかけをくれる彼は、私よりも一枚も二枚も上手だ。
『…ごめんなさい』
適うはずが、ない。
痴話喧嘩
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