僕は彼女に恋をした。彼女も僕に恋をした。二人はまるで呼吸をするのと同じようにごく自然に惹かれあったのだ。僕にとって彼女は空気のような存在だった。

しかしある日突然、それではいけないと思った。慢心、という訳ではないが、僕と彼女は所詮他人。二人のあいだを繋いでいるものに安心しきってはいけない。それはもしかしたら今にも切れそうな蜘蛛の糸かもしれないのに。

だから僕は考えた。僕と彼女が一緒にいることを、確かにしてしまえばいいのだと。簡単には切れてしまわないよう、自らで補強すればいいのだと。

思い立ったらいても立ってもいられなくなって、気がつけば彼女の家を訪れていた。ドアの隙間から見えたその表情は、眠気と不機嫌の色を浮かべている。

「貴方ねぇ、今が一体何時か分かっているの?」
「分かっている。すまなかった」
「私が嫌いなものは何?」
「蜘蛛、冷えたコーヒー、新品の靴の匂い」
「それと、睡眠を妨げられることよ」

時計は午前4時を指していた。普通ならば僕も床についている時間だ。しかし今は不思議なくらい目が冴えている。

彼女はお湯を沸かし、コーヒーを注いでくれた。とても飲めないような熱すぎるコーヒーだ。暫く冷ましておくため、マグカップをテーブルに置いた。

「夢を見ていた」
「夢?」
「悪夢よ。内容はよく覚えていないけれど。貴方がうちのチャイムを鳴らしてくれなければ、洗濯機を余分に働かせなければならなくなる所だった」
「何故」
「悪い夢には発汗作用があるから」

発汗、と言われてふと背中がびっしょりと濡れていることに気がつく。急いでやってきたせいだろう。だが今はそんなことはどうでもいい。

「それで、何の用なの」

彼女が言う。不機嫌さはすっかり影を潜め、純粋に疑問を抱いているようだ。

「言いたいことがあるんだ」
「人を殺した?」
「まさか」
「だって、貴方の顔すごくギラギラしてる。まるで殺人鬼みたい」

殺人鬼の顔がギラギラしているかは知らない。彼女も知らないはずだ。第一見たことがない。

「大事な話だから、真面目に聞いてくれ」
「スーツでも着る?」
「それが君の真面目ならば」
「冗談よ。貴方の前ではそんなもの着たくない。職場だけで十分だわ」
「僕もそのパジャマの方が好きだ」

彼女の形のいい胸が服の上からでも分かった。布を押し上げているその双丘の感触が思い出される。手を伸ばしそうになってやめた。彼女が不思議そうな声を出す。

「あら、やめてしまうの」
「セックスをしに来たわけではない。プロポーズをしに来たのだ」
「えっ」
「あっ」

しまった。これでは計画が台無しだ。きちんと彼女の顔を見据え、歯の浮くようなロマンチックな愛(ベタなラブストーリーは彼女の愛するものの一つだ)を囁き、結婚を申し込むつもりだったのに。

予期せぬ失態にがっくりと肩を落とす。あぁ、なんてことだ。室内に訪れる暫しの静寂。何処か遠くで犬が吠える声がした。

「ふふふっ」

彼女が突然笑い出す。雛鳥が餌を強請る時のような甲高い音だった。思わず眉をしかめる。

「笑わないでくれよ」
「だってそんな手の込んだ冗談を言うなんて、貴方らしくないわ。どこでそんな上手なユーモアの勉強をしてきたの?」
「冗談じゃない。僕は本気だ」

じっと彼女を見つめ、その手を握った。ほんのりと白ばんだ外の光に照らされた彼女の顔は、何だか彫刻のようだ。少し怖くなる。

「結婚してくれ」
「いいわよ」
「えっ」

どうして驚くの、と彼女が言った。

「断られるかと思っていた」
「そうね」
「何故断らない?」
「断ろうと思ったけれど、貴方を否定する理由が特に見つからなかったのよ。でも承諾する理由はたくさんあることに気がついた」
「例えば?」
「指輪が欲しかった。それと、私って絶対白無垢が似合うと思わない?着てみたかったの」
「確かに」
「私が綺麗に着飾って幸せに微笑む姿を、結婚に失敗した馬鹿な女友達に見せつけてやりたい」
「ふむ。好きにすればいい」
「あと、まぁこれが一番の理由なんだけど」

するりと細い腕が首に巻きついてくる。これは彼女がセックスをしたいときの合図だ。

「貴方を愛しているから」
「なるほど」



幸せの序章


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