シルノフ編 | ナノ


 ウォッカはゆったりとした歩調で見慣れぬ屋敷を歩き回る。
 少し遠い場所から喧噪が響き渡るが、それを気にするほど繊細ではない。
 たまにシルノフの人間と出くわすが、自分の顔を見た瞬間顔を青くして腰を抜かしたように逃げ去っていく。
 よほど有名になったのか、別理由か。
 後者だろう。当たり前と言えば当たり前だが。
 そうして歩いて行くと、突如、広い回廊のような場所に出た。
 その回廊の真ん中に立つとウォッカは周囲を見回す。広い回廊だが、人気はない。むしろ埃の具合からあまり人が立ち寄らないのがわかった。
 横を見ると大きな噴水は目につく。その周囲には広い庭園と、ロシアには似つかわしくない豊かな緑広がっていた。
 屋敷内の喧噪とはまったく無縁の空間にウォッカは目を細めた。

「アレクサンドロ」

 しかし聞こえた声がすべてを吹き飛ばす。
 視線を向ければ、そこには一人の女がいた。豊かな黒髪に、黒いドレス、その上に真っ赤な皮のブルゾンを着ている。

「アレクサンドロ…ああ、久しぶりね」

 優しい笑みにウォッカは微笑みを返す。
 それに気をよくしたのか、女、アスフォデルは覚束ない足取りでウォッカに近づいていく。

「貴方変わっていないわ、あの頃のまま。ふふ、私のかわいいアレクサンドロ」

「…そちらも変わっていない」

 同じような言葉を返し、ウォッカはアスフォデルを正面から見た。
 黒い髪に黒い瞳、そして一見優しげな目元。その目元に何かを思い出す。
 そうこれは、自身の目元によく似ているのだ。

「そう、変わっていない」

 何一つ。
 ギィンッ、と鋭い金属音が響く。
 ウォッカは鞘から抜いた刀を、アスフォデルは女には似つかわしくないダガーナイフを手に持ち互いに睨みあう。

「…これは私のおもちゃなの」

 冷たい声が耳朶を叩く。

「アレクサンドロ」

 互いに一歩引き、再び得物を構える。

「ひとつだけ残念な知らせをしようか」

 ウォッカは刀を下段に構えたまま静かに声を出した。
 耳を澄ませなければ聞こえない程度の音量だが、アスフォデルには聞こえているらしく、小さく首をかしげた。

「アレクサンドロは、だいぶ前に死んだ」

「どういうこと?」

 だってお前はここにいるじゃない。
 アスフォデルは当然の事実を口にした。しかしウォッカにはそんな現実的な事実などどうでもいいのだ。

「俺は、ウォッカと言いますが?」

 嘲るような笑みを浮かべアスフォデルを見る。
 俯いたアスフォデルの表情は見えない、しかし空気が、変わった。

「…ああ、そうなの。じゃああの子を取り返さないと」

「はは、面白いことを言う。貴方は自分で殺したじゃないですか、アレクサンドロを」

 刀の剣先を上げて、中段から上段へ。対する人間の首元へ向けた。

「だからあんたは過去の亡霊の殺されるんだ」

 地面を力強く蹴ったのは。アスフォデルだった。
 手首めがけて素早くナイフを振るう。しかしウォッカはそれを軽い動きで避け、刀を横へ薙いだ。
 降る雨すら切り裂くような剣筋を、アスフォデルは恐れる素振りも見せずナイフで受けると、袖の下に隠した小型のナイフを取り出し、目を狙い一気に突く。
 そしてウォッカが下がった。
 現役を数年前に退いたウォッカは息が荒れてしまっている自分に気づく。
 日頃のデスクワークがここに響くとは。

「…ねえ、わかったの」

 決して獲物を追い詰める真似はせずに、アスフォデルは静かに言った。
 俯いた顔からは何も察することができない。

「ここで全部なくなれば、何もないのよね」

 そして顔を上げ。
 満面の笑みで、少女のような口調で。

「だから死んで!」

 溌剌とした言葉が、庭園に響いた。







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