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 グラスに水を注ぐ。掌にひとつふたつみっつ頭痛薬の錠剤を落とし飲み込み、温い水を流し入れる。嫌な温度だ。じりじりと窓の外でセミを潰したような鳴き声がするならまだ良い。がりがりがりがり聴きたくもない音が音が男以外に人が居ないはずの室内に響いている。上階の住人が騒いでいるのだと言い聞かせる(ここは最上階だ)。アア嫌だと男はかぶりを振った。意味もなく冷や汗を流し、口内に半端に残った頭痛薬の苦さに少しばかり安堵さえする。背中から伝う吐き気に肩を震わせる。耳を塞いでうずくまった。
 がりがりがりがり。薬を飲んだはずなのにちっとも治まらない頭痛に辟易する。息をつく隙もないほどに追い立てられた男の思考は意味もなく一周二周三周と回り、ただただ耳を強く塞ぐ。聴きたくもないがりがりという音から逃れようと身動いだ。苦みがまだ口に残っている。アア嫌だ嫌だだってこの部屋には誰も居ないのにと言い訳染みた嘘を溢した。だってこの部屋にはひとひとりしか居ないのに。
 これは女の足音だ。がりがりと床を引っ掻き詰め寄る女の。夏日に締め切られた部屋に、錆びた鉄の臭いが広がった。がりがりがりがり、爪で引っ掻く音はどうにも好かないのはヒトの本能なのか。噎せ返る味の空気と嫌な温度を飲んで、男はまた強く耳を塞いだ。
 水道水がいけなかった、と後悔を垂れたところで今更。女のがりがりという足音は徐々に徐々に近付いて、締め切られた部屋の嫌な温度が背中を伝う冷や汗へと変換される。支離滅裂な彼の思考は四周五周六周。きゅ、と悲鳴を上げて捻られた蛇口から水道水が錆びた鉄の味がする水道水がじゃあじゃあ馬鹿みたいに流れていく。強く塞いだ男の耳はそんなもの聴いちゃあいない。喉でつかえた唾だか薬だか言葉だかが、存在を主張する。
 うずくまり強く耳を塞ぐ両の手首を掴まれる。予想より遥かに強い力で、握り締められる。うそうそ、そんなものは居ないからと、引き攣った笑顔のなりそこないを浮かべる。アア嫌だ、力づくで耳から手を離される。冷や汗がこめかみを伝う。見開いてしまった目が見たのはあの卑しい女の非道い顔。
「逃がさないから」
 とうの昔に死んだはずの、裂けた口が囁く。その黒い目玉に映る怯えた男に似た口元を、女は歪めたのだ。粟立つ肌がアレルギーのように女の存在を否定するも、握られた手首は青い痣を滲ませている。女と同じ血を流す男の体が、皮膚の下で身を捩る。逃げ出そうと足掻く。ますます女は笑みを深くする。じゃあじゃあとノイズを引く。

『――は、お母さんを裏切らないわよね?』
 あの日の女の声を、男は思い出した。ぎりぎりと軋む手首はあの日も強く握られていた。
『あなたはお母さんの味方よね、――?』
 父の浮気が露呈した日、両親はついに離婚した、らしい。男は覚えていなかったが、この女は死んでも恨み続けたようだった。はて自分はあの時、母に何と答えたか。

「ねえ、――?」
 アア、嫌だ嫌だ。夏日に閉め切られた部屋の温度が恐ろしく低いのは、今もまだ馬鹿みたいに流れている、鉄の、血の味がする水道水を飲んでしまったからに違いない。

 悪夢、あるいは - back

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