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 手首にカッターを当て、すうと引く。少し遅れて赤い液体が溢れた。ぷくりと丸い玉になっていくつか連なる。
 確かに私は生きているのだ。こうして血を流せるだけの生を、私は享受している。

『血液を流すのは生物である』
 この命題は真だ。生物は等しく、呼吸をし、その酸素を取り込み運搬する血を、あるいはそれに代わる液体を持つ。
『赤い血液を流すのはヒトである』
 この命題は偽だ。ヒトは等しく赤い血を流すが、その畜生の流す血もまた赤い。
 笑うことが出来るのはヒトだけだ、といつか耳にしたのを思い出し、鏡の向こうに笑いかける。引きつったそれは、とても笑顔と呼べる代物では無かった。
 手首の傷もかなり浅く、もう血も止まっていた。滴り落ちるほどでもなく、洗面台は相変わらず憎いくらいに染み一つ無い綺麗な白色をしていた。
 もう一度、カッターを手首に当て、引く。今度は傷すら出来なかった。
 何だ死ぬ勇気も無いのかと笑って、ティッシュで僅かな血を拭いカッターをペン立てに戻した。

 どうして、こんなことをしたのか。
 途中で投げ出してしまった、論文となる筈の紙切れを見た。解剖された蛙を見た。部屋の片隅に、ゆらりとホルマリンが笑う。私のものではない血液が染みになっている白衣は、辛うじて白を残している。
 何の役にも立たない――成果が出ればある程度の使い道は有るのかもしれない――研究を続けていた私は、ある日突然分からなくなってしまったのだ。
 私自身のことが。
 ただ個人の好奇心だけで動いていた研究は停止してしまった。こんなに沢山解剖する前に、私は私を知るべきだったろうか。
 私は死にたいのか。
 いや、違う。死にたいのではない。死にたくはない、未だ。この傷は死にたくて付けたのではないのだ。そもそも手首切ったくらいでヒトは死なない。では何故。
 ふと見た傷は浅すぎて、とても傷とは呼べないようなものだった。きっと誰もリストカットだとは思わないだろう。少し、そう、少し、引っ掻いただけ。数日で完全に塞がる。また何もない毎日が始まるだけだろう。誰も気づかない。
 何故、こんなことをしたのか。堂々巡りだ。問答は終わらない。
 もう一度、洗面台の前に立つ。鏡に映る私はどんな顔をしているのだろう。どんな顔をしてカッターを引いたのだろう。
 鏡を覗いて、この数分を振り返る。何度も反芻して、ようやく気付いた。
 血管を断ち切りたいのではなく、血液を失いたいのではない。
 ただ、切りたい。
 そうこれも好奇心だ。
 私は自分が、さっきバラした蛙と何ら変わらないものではないかとさえ思う。またホルマリンはゆらりと笑ったように見えた。
 ただ切りたいのだと赤く染まった白衣が叫んだ。
 そんな私でも生は等しく享受できるのだから、世界というものはよくわからない。憎い程白一面の洗面台を見て思った。

(切る人)

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