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 彼女の自慢は、透き通る水のような声だった。

 琥珀色の液体が、彼女の手の中のグラスで揺れる。からんころんと軽薄な音で笑った。
 店のステージでは若い娘が歌い、物悲しい旋律があたりを満たしていて、かえって息が詰まると店主は思った。
「やっぱり、君の方が上手かった」
 グラスを傾け、シンプルなドレスの女性はバーボンを煽った。あんなのは違うわ、と言いながら濡れたコースターをいじっている。あの子の方がいい、私はもう、と酒で焼けた喉で呟いた。
 数年前までこの店の歌姫を務めていたジーナは、かつてその透き通る声で人気を博した。一時は立ち見が出るほどに人気だった。ステージの上では、どこの誰より美しい人だった。
 それが、ある日突然辞めたいと言い出したのだ。よく晴れた夜のことだった。
「もう、私の時代じゃあないわ。だから降りるの」
 何故という問いに、ジーナは答えなかった。ただ、もう終わったのとそれだけ言った。今も同じことを繰り返している。
「私ね、疲れたの。ほら、もういい年だし」
 グラスの中の琥珀と同じ色の目が陰った。ステージを降りてから、彼女は酒をよく飲むようになった。これまでは喉を傷めてはいけないからと、全く飲まなかったのに。それでも普通よりは少ない量で、なのに喉は潰れてしまって、二度とステージで歌うことは叶わなくなった。グラスのバーボンがからんころんと軽薄に笑う、ジーナはその度に時代は終わったとささやくのだ。

 ジーナの自慢は透き通る水の声。おだやかに、たおやかに、店内に満ちる哀愁。表情はほとんど変わらないのに、感情は滲んで溶けだしていた。
 今ステージに立っている娘の声は、星屑のように輝いていて、正直を言えば押しつけがましい美しさだった。悲恋の歌も、ひたすらに悲しいと叫ぶだけのように歌う。ドレスと揃いのアイラインが少々きつい。
 それでも、娘の歌はこの街のトップを争うほどなのだ、本来ならば。つまるところ、ジーナでなければここは満たされないのであり、たとえどれだけ素晴らしい女性がステージに立とうと、それはカウンターで見つめる店主にとって何の意味もない。彼にとって、ジーナだけが歌姫なのだ。

△△△

「十中八九、ストレスですねえ」
 カルテと患者を交互に見ながら、医師はそう診断した。丸いレンズの眼鏡を親指でずりあげる。でたらめみたいに大きな黒目と、彼女の視線がぶつかった。
「歌手、だとか」
「小さなバーで、少し、歌わせてもらっているだけです。そんな大層のものでは」
 覗き込むようにした医師の、気味の悪い目から逃げるように顔をそらす。どこかの呪い人形みたいで、子どもが見たら泣き叫びそうだ。かつかつ、と爪で机を鳴らした。少し、黒ずんでいるようだった。
 医師はまた、患者とカルテを見比べる。ぎょろりと目玉が回った気がした。
「声が出なくなるようなことは、まあ無いと思いますが。もとのような声は出ないでしょうねえ」
――少なくとも、ステージで歌うなんてことは。
 長い髪を肩のあたりで揺らせて、彼女の上を医師の言葉が通り過ぎる。その後も医師は何かを言っていたが、それが彼女の耳に入ることはなかった。でたらめみたいに大きな黒目目が視界の端でちらついていた。

△△△

 その日の晩から、ジーナは酒を飲むようになった。銘柄はいつも決まって、琥珀色のバーボンだった。
 彼女が病の事を誰かに言うことはない。これまでもこれからも、彼女は告げないつもりなのだろう。ストレスの原因に気付いているのかいないのかさえはっきりしない。歌うつもりも本当にないようで、店主にはそれだけを伝えていた。
 そうして彼女は今日もまた、カウンターに腰をかけ、バーボンは自嘲的な笑みを湛える。
「本当に、もう歌わないのか」
「……ええ」
 微笑む彼女の黒い睫毛が、なんでもないとでもいう風に揺れて、店内には拍手が響いた。一礼をする娘。ジーナの姿が被った。潰れた声で笑うジーナはグラスを傾けて音を立てる。きらびやかな景色が、琥珀に映った。
「いいの。これでよかったのよ」
 ステージを見つめ嘯いた。そこから何が見えるのだろうか。
店主は開きかけた口を閉じ、かつての歌姫を見た。歌声を失くした彼女からは、何の感情も、読み取れそうになかった。

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