180、奇跡の疾走


夕陽に照らされている広大な砂漠を、ヒッコシクラブが駆け抜けている。
遠方で巻き上がっていた砂嵐は消え、静けさだけが、夜の帷の覗く闇の中で蠢いているようだ。

ヒッコシクラブの足元からたなびく砂塵を見つめながら、サンジはたばこに火を付ける。その後ろでは、ゾロがマツゲを刀に乗せ、ダンベル代わりのトレーニングを行っている。不安がじんわりと一味の空気を侵食していく。嫌な胸騒ぎを感じてどうにもみんな落ち着きがない。

「来たーッ。ついにこう言ったのさ、“このガニ股野郎”! それからだな。世界中のカニがガニ股を気にし始めたのは」
「へえ! だから横歩きしてるんだなあ
「ちなみに、後ろに飛び跳ねた奴もいる。そいつは“エビ”だ」
「へえ! エビはじゃあカニなのか?」
「あァ、カニだ!」
「へえ!」
「うう…。純粋なトニーくんかわいい…」

どんよりとしてきている空気をひとつ変えようとはじまったウソップの知育おもしろ話だが、聞き手はチョッパーしかいない。アリエラは小さな船医の無邪気さにきゅんときているみたいだが、その隣にいるビビはウソップの会話にちょっぴり戸惑いに近い呆れを見せていた。
内容はともかく、ウソップの元気な声が紡ぐ明るい話は自然と場の空気を和ませている。
「じゃあ次はサソリの話だな」と話題が変わってもなお、一定のリズムで上がるゾロの呻き声にナミは痺れを切らしたようにじっとりとした目を彼に向けた。

「ゾロ。あんたそれ余計な体力使わない?」
「……ほっときゃいいんだよ、ナミさん。あいつは何かしてねェと気が紛れねェんだ」

サンジはすこし挑発するような声をあげて、レンズの奥の瞳をちらりとゾロに向けた。

「器用じゃねェのさ。特にあの体力バカは七武海の強さを一度モロに味わってるからな」
「おい……、てめェ何が言いてェんだ。はっきり言ってみろ」
「あァ、言ってやろうか。お前はビビッてんだ。ルフィが敗けるんじゃねェかってな」
「え…ッ、」

紫煙と共にこぼされたサンジの言葉に、ビビは顔を持ち上げて短く息を飲み込んだ。
どくり、と空気は揺れてウソップの声もぴたりとやんだ。
砂嵐がパッタリと止んでしまってから続く静寂な不穏。誰も考えないようにしていたことだけれど、それが言葉になると一気に意識が不安を膨張させていく。

「おれがビビってるだァ!? この…ッ“素敵眉毛”!!」
「カッチーン……頭きたぜ、この“マリモヘッド”!!」

気の触るあだ名に苛立ちのまま立ち上がり、ドン、とお互い勢いよく足を踏み出して顔を近づけて「やんのかてめェ!」と、ほとんど同じ低さの声をきれいに重ねる。
このまま二人の喧嘩が勃発すると思いきや、我らがナミさんがごつんとゲンコツを落としてくれたおかげでびりびりとした剣幕は糸が緩んだみたいにふっと消えた。

「やめなさいよ。くだらない」
「わあ」

柳眉を持ち上げて腰に手を当てるナミに、アリエラはお見事と拍手を送る。
伸びているゾロとサンジにあわあわしているチョッパーをみて、ウソップはごくりと息を飲み込んだ。

「(相手が相手だ。みんな少し気性が立ってる…。こんな時は副キャプテンのこのおれ様が…!)」

ぐっと拳に力を込めて、立ち上がりみんなを励まそうとしたウソップだが。それを遮るように水色の髪の毛がふわりと揺れた。

「平気よ、みんな! ルフィさんは敗けないわ。だって、約束したじゃない…私達はあるバーナで待ってるって!」

しん、とした中に溢れた王女の声は明朗を取り繕っているけれど、すこし震えている。釣られるようにみんな、視線をビビに向けると、その綺麗な顔は汗に濡れて心なしか青ざめているようだ。

「お前が一番心配そうじゃねェか!」
「もうっ。ビビちゃんは何も考えなくていいの!」
「そうよ、ビビ。あんたは反乱の心配だけしてればいいの! わかった?」
「あう……ひゃい、」

思わずツッコミを入れるウソップに、相変わらずなビビの様子にアリエラは感心しながらも片眉を持ち上げる。ナミも、むっすりと眉を持ち上げてビビのやわらかいほっぺたをむにっと摘んで怒りを見せた。
今この国の全てを背負っている王女にまたさらなる心配をかけてしまったなんて。ゾロもサンジもむくりと起き上がって、ちょっぴり気まずそうに頭を掻く。

「悪かったな、ビビちゃん」
「お前にフォローされたらおしまいだぜ」
「よし、じゃあ頭はアルバーナに切り替えていくわよ、ハサミ!」

わずかに払拭された不安をそのまま大きく払うべく、ナミは先頭に立ち、走り続けているヒッコシクラブに声をかけた。

「ハサミ?」
「なんだそりゃ…」
「名前よ。このカニの」

きょとんと瞬きを繰り返すアリエラとウソップに、ナミは大きな目を向けて当然のようにそう口にした。いつの間にやら“ハサミ”という安直な名をつけられていたヒッコシクラブは、ヘラリとしたいやらしい目をより撓ませてスピードをあげる。

「へえハサミかァ」
「ハサミってお前…」
「悪い!?」
「いえ、悪くないです」

感心するチョッパーとは反対に、呆れをこぼすウソップにナミはくわっと噛み付いた。先程のゲンコツという雷を自分に落とされる恐怖に身震いをしたウソップは、すぐさま首を振って“ハサミ”を受け入れる。
そんなやりとりを見つめながら、アリエラは「ナミってネーミングセンスがないんだわ。可愛い…」とひとりほっこりしていた。


「なにっ、このカニで河は渡れねェのか!?」
「ええ。ヒッコシクラブは砂漠の生き物だから水は苦手なの…」
「水の生き物だろ、カニは! 海じゃねェんだ、しっかりしろ!」

何の弊害もなく砂漠を突き進み、アルバーナに続くサンドラ河付近まで無事に辿り着けたのはいいものの、ここで新たな問題が発覚した。
ウソップの悲鳴にも近い困惑の声は、暗くなってきた砂漠にじんと響き渡る。

「どうしよう…わたし達、泳ぐのは厳しいわ」
「うん…、」


眉を下げて口元に手を当てるアリエラの嘆きに、同じ能力者のチョッパーも頷き同調する。何キロも水中を渡るなど能力者にはどうあがいても不可能だ。不安げに表情を曇らせるアリエラに、サンジはにこりとやさしい笑みを浮かべて「大丈夫さ、アリエラちゃん」と穏やかにこぼす。

「おれがお姫様抱っこしてアリエラちゃんを向こう岸までお運びしますよ」
「ふふ、うん。ありがとう、サンジくん。頼りにしてるね」
「いやあ、へへ。…うん、頼りに、しててくれ」
「いや泳ぐってお前ら簡単に言うがよ、こんなのどう考えたって無理だろ!」

アリエラの笑顔に胸は痛いほどにぎゅるんと上擦って、どうにかなってしまいそうだったが、くっとそれに耐えてサンジが鷹揚にこたえるとすぐに後ろからウソップの非難が入った。
ハサミの上で広げた地図の上でサンドラ河の距離を指ですい、となぞり、その顔をますます青くさせる。

「一体何キロあるってんだよ! この海みてェに広い河をのん気に泳いでたら日が暮れちまうぞ! それに見ろ! 河を越えたらまた何十キロも砂漠がある! このカニが向こう岸へ行けなきゃその先…走れってのか!?」
「仕方ないでしょウソップ。方法はこれしかないんだから、諦めなさい」
「間に合うわけねェって! 無理だ、絶対無理!」

そもそもあの距離を渡れる気がしねェ!と頭を抱えて現実逃避をはじめるウソップの絶望に濡れた声がただひたすらハサミの上で響いている。彼の言う通り、10キロ以上にも及ぶあの河を全員無事に渡り切るのは不可能に近いことだけれど、でも残された道はただひとつだ。
何か他にいい案はないか。諦めがつかないウソップは半ばパニックになっている脳裏であれこれ考えていると、「あ、」とサンジの低い声が空気を揺らした。

「おいやべェぞ。河だ!」
「ひゃ…っ、おっきい…!」
「う…っ。何とかして ハサミ君!」

ついに現れた前方に広がるそれに、意を決していたアリエラもナミもつい怯んでしまう。一度メリー号で渡ったからわかってはいたけれど、でも“泳ぐ”と意識するとあまりにも大きすぎるのだ。向こう岸が見えない程の広大さに、ナミは可愛らしい甘えた声をハサミに投げたところ。チョッパーが、「ああ!」とひらめきを上げた。

「どうしたの? トニーくん」
「そうだ! ハサミは踊り子が大好きなんだ!」
「え、踊り子?」

言いながら、チョッパーは乞うように目の前のナミを見つめる。視線を受けたナミは、え、と大きな目をぱちくりさせたが、すぐに意図を汲んでコートをするりと脱ぎ捨てた。

「これでいいの?」
「たぶん」

ふわりとした布のなかから剥き出しとなった健康的な肌に、たっぷりとした胸、きゅっとくびれた腰に、ふわりとしたヒップ。奇跡と謳うほどに抜群なナミのスタイルは踊り子衣装の魅力を極めて引き出していて、ハサミの上できらりと輝いている。

「んナミすわぁぁぁああんっ なんって、なんっって、ビューティフル…っ
「ヴ…ヴォ
「余計なのも二匹壊れてんぞ」

ハサミよりも先に反応したのは、サンジとマツゲ。目をハートにして、惜しむことなくさらされたそのスタイルを、ちょっぴり鼻血を垂らしながらメロリン見つめている。ふたりの甘い雰囲気に誘われて、ハサミも前に向けていた目をひょい、とこちらに向ける。
「あ、こっちみた」とチョッパーが言う。へらりとした瞳が踊り子衣装のナミを見つけた途端、ハサミもサンジとマツゲ同様にその目をピンクに変えて、びゅんと走るスピードを上げていく。

「よし、エロパワーだ!」
「わあっすごい さすがナミ! 動物までメロメロにしちゃうなんて」
「ってチョッパー! これが何の解決になるんだよ!」

空気をメロメロに変えただけじゃねェか!と、眼前に迫り来る河にウソップは再び絶望を抱き、ぎゅうっとほっぺたを包み込んだが──。ふ、とからだに走る振動が滑らかなものに変わって、ん?と瞬きを繰り返す。
立ち昇っていた砂埃は消えて、代わりにびしゃびしゃと水が跳ねるのを音で感じる。

「おいおいおい…このカニすげェぞ。信じらんねェ…」
「わああっ夢みたい…!」

あまりの光景にナミのお色気を食らっていたサンジもメロリンから帰還して、打って変わった真剣な表情でハサミを見つめている。その隣でアリエラもぱあっと顔を輝かせて、ビビも「うそ…、」と己のなかでの常識を覆されたのを、呆然と感じている。

「奇跡だ…ッ、水上を走ってる!!」

ナミのスタイルを脳裏に焼き付けたハサミはそれを燃料に凄まじいスピードで水面を駆け抜けていく。巨体の上に8人という大きな人数を乗せているのに、水に沈まぬその唯ならぬパワーにどんどん希望が開いていく。

「よし! このまま河を走りきれ、ハサミ!!」

向こう岸に見える大きな夕陽に向かってハサミはひたすら駆けてゆく……。



その頃、後方。ルフィは完全なる窮地に陥っていた。

「肉ーーーッ!!」

クロコダイルの作った巨大な砂の渦のなか。かろうじて顔だけ外に出していたルフィは、乾き切った大空に向かって声を震わせた。けれど、ぴゅうっと砂まじりの風が吹くだけで、応えるものはない。
砂漠の天気も偉大なる航路のように気まぐれだ。凪いでいたのも一瞬。また突風のような強い風が吹きはじめ、砂の渦はルフィを引き摺り込むように侵食してくる。

「…ん…う…ウウ…!!」

必死に抜け出そうと試みるも、なだれ込んでくる砂と引力には敵わない。力を入れるたびに、クロコダイルに貫かれた腹の穴からぷしゃっと血が噴き出るのを感じる。
『海賊の核が違うんだ』『“ユバ”は死ぬ』
奴の、薄笑い混じりの声が脳裏で反響する。その度にもがき争いを見せるが、うまくはいかずにどんどん身体が冷たくなっていくのを遠のいていく意識のなかで感じていると、ふっと目の前で長い影が伸びた。認識した途端、砂の中から押されるようにしてルフィの身は平坦な砂漠の地に投げ出される。

「……ありガとう…」

仰向けになって寝転ぶルフィは、引きずられているような錯覚をまだ抱きながらもほっと安堵のため息をこぼした。どくどくと止まらぬ血を止めようと、おなかに手を持っていくが力が入らない。手を鮮血に濡らしながら、救出してくれた人物に視線を這わせ、掠れた声で謝礼をすると彼女は柳眉を釣り上げた。

「…なぜ戦うの?」
「……?」
「“D”の名を持つあなたたちよ」
「……D? ゲホッ、…ッ」

責めるような冷たい口調だけど、彼女…ミス・オールサンデーからは殺意も戦意も感じない。ルフィは咳き込みながらも、反芻する。その色に彼女は深いことを窺い知れず、すっと双眸を細め、ルフィを見下ろした。

「どうやら無駄な質問みたいね」

言いながら、彼女は飛ばされていたルフィの麦わら帽子を能力で咲かせた手から飛ばし掴むと、ルフィのお腹の上にひらりと乗せる。その時、ざっと砂を強く踏む音がレインベースの方角から聞こえて、ミス・オールサンデーは鷹揚に顔を持ち上げた。

「ビビ様をどうした…!」
「あら…もうお目醒め?」

含み笑いを浮かべながら、声の主に目を向ける。そこには、剣を構えて立つ傷だらけのペルの姿があった。猛禽類の、ぎろりとした視線が鋭くミス・オールサンデーを突き刺している。

「…貴様の能力を把握したからにはさっきのようにはいかんぞ……!」
「…無理しないで。もっと重症のはずよ」

さっき外した関節もまだきちんと癒えてはいない。立っているだけでも辛いだろう。ミス・オールサンデーはくすりと笑みを浮かべると、戦う気はないわ。と白いコートを翻して彼に背を向けた。

「その子を助けてあげたら?」
「……!」
「あなた達の大切なお姫様をこの国まで送り届けた勇敢なナイトですもの」

ゆったりとした足取りで、彼女は少し離れた場所に止めていた“Fワニ”と呼ばれるワニの乗り物へと向かっていく。しなやかなその後ろ姿と血だらけで倒れているルフィの姿を交互にみて、ペルは奥歯を噛み締めた。

「それに…王女は無事よ。今アルバーナに向かっているわ。……これからどうなるかはわからないけど。事態が事態だものね」

それだけ言い残すとミス・オールサンデーはワニに乗り、大きな足音と砂埃をあげて、アルバーナ方面へと消えていった。遠く離れていく砂塵をぼんやりと見つめながら、ペルは崩れ落ちるように膝をつく。
己も血だらけの口元を拭い、とぐろ巻く不安を胸の中でこぼす。

「(私が敵わねば…一体誰がビビ様をお守りできるというのだ…!)」

アルバーナへと飛び、先回りしてもこの体では満足に王女を守ることも敵わないだろう。己の不甲斐なさに苛立ちを抱き、血の滲むほど強く拳を作ったペルの、動きを制すようにごそりと手元でルフィの手が揺れた。
ぎゅうっと掴まれた腕にはあたたかな力が微かに残っている。驚いて、彼を見下ろすと、ルフィは「肉!!!」と真剣な顔をして、そう叫んだ。



TO BE CONTINUED 原作111話-180話



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