Armeria

突風が奪うように、なまえの髪を撫でた。
ゴミが入らないよう反射的にぎゅうっと目をつむる。ぱたぱたと激しくなびく旗の音が高いところで響いている。今日の海は、すこし風が強い。けれど、ナミがいうには航海には支障はないとのことで、やはりその通りにサニー号はおだやかに、時たまスピードを上げたりしながら緩やかに前進している。

「うん…そろそろ時期かなあ、」

絡めとられてしまいそうな強風に煽られた髪の毛はぐしゃりとしている。綺麗に直そうと、とりあえず手櫛を通したところ。なんとなくその重さが気になった。一度気になると、それはしこりになって脳みその片隅に鎮座する。

この船で、散髪を担当しているのはウソップとサンジとロビン。誰が決めたわけでもなく、気がついたら手先が器用な三人に任せることが増えて、今となってはすっかり定着してしまっている。たまに、美容師ごっこと称し、全員甲板に集まって髪の毛を切ったり整えてもらったりすることがある。それも、忙しさや奇襲が合間って、ここ数ヶ月行われていなかった。
だからおのずと髪の毛も伸びたり増えたりするもので。なまえはすこし整えてもらおうとロビンを探してみたところ、図書室内。珍しくお昼寝している姿を見かけて、「わあ、ロビンかわいい」ときゅん、とこぼして踵を返した。
ウソップも、ルフィたちと釣りを楽しんでいる最中だったから気が引けておなじく声をかけずに欄干を通り過ぎる。

残るは、サンジだ。すこし、思うことはあるけれど…。気になってしまうから今回は彼に頼もうと、きゅっと心を引き締めてキッチンに足を踏み入れてみる。
ちょうど一息ついているところ。紅茶を飲みながらたばこを愉しんでいる彼が食卓にいた。せっかくの休憩時間を奪ってしまうのには申し訳なさを感じるけれど、散髪のお願いをしてみたら彼は「お任せを」って満面の笑みを浮かべて快く承諾してくれた。


偉大なる航路は、秋の空よりも簡単にころりと感情がかわる。さっきまで時たま吹いていた強風は突然おさまり、今はときたまぴゅうっと軽やかな風が吹く程度にまで落ち着いていた。

「お、ちょうど風がおさまってきたな」
「ほんとだ。じゃあサンジくん、ここでおねがいしてもいい?」
「うん。静かだし…ふたりっきりみてェでドキドキしちまうな」
「えへ。うん…」

選んだ場所は、メインデッキからすこし離れた船尾甲板。ちょっぴり日陰になっているこの場所は、あまりクルーがやってくることもない。図書室に次いで、ここはこの船の中で最も静かな場所のうちのひとつだった。
寒くないように、とふわふわの膝掛けを用意してくれたサンジにお礼を言って、なまえはきらりと輝く海を見つめる。

「失礼します」と丁寧に紡がれた低い声に続き、心地のいいハサミの音がまどろみそうなほどに静かな空間に響き始めた。ふわりと髪の毛をとるだけでも、泣きたくなるほどに優しい手つきを見せるサンジに、なまえの胸はきゅっと締め付けられる。
彼とは恋人同士なのだから、最初からサンジに頼めばよかったのだけれど、なまえはいつもいちばんにロビン。にばんにウソップを選んでいた。

「あまり長さは変えねェ方がいいかな? 量だけ減らそうか」
「うん。伸ばしたいからうんと、長さは…このくらいで切り揃えてもらえるかな?」
「了解しました。お姫様」
「ん…っ、」

だって、だって。この、惜しみなくくれる愛とやさしさに日中から触れるのが、くすぐったくて照れくさいから。
ちゅっと音を立てて髪の毛にキスをするサンジにどきりと胸が鼓動打つ。まるで、耳のなかに心臓があるんじゃないかしらってくらい、ドキドキ言っているのが聞こえてくる。
サンジくんに聴こえてないかな?って彼を盗み見したいけれど、散髪中にそれは叶わない。でもきっと、きこえていなくても。ドキドキしているのは、バレているはずだ。

「なまえちゃんの髪の毛、やわらけェよなあ。ふわっふわで気持ちいいよ」
「ほんと? 自分じゃわからないけど……あ、でもね、サンジくんも髪の毛やわらかいよ」
「そう? 確かに、自分じゃ分かんないね」

ふつうのハサミとは違う、ちょっと独特な心地のいい音がカモメの鳴き声にまざりあう。
前、ルフィの髪の毛を切っているサンジをひたすら盗み見していたことを思いだす。咥えたばこを口元で弄びつつ、器用にハサミを操って躊躇いなく綺麗にカットしていく姿はスタイリッシュでどこか色っぽくて。料理している時とはまた違った彼の没頭し、集中している姿に見惚れてしまってうっとりし過ぎていたのだろう。「なまえ、見惚れすぎ」ってじっとりした目をナミに向けられたのも。まだ記憶に新しい。

目を閉じれば浮かぶあの姿が、今自分に向けられていると思うとなんとも言い難いむず痒さと幸福がなまえの胸を襲う。
やわらかいと言ってくれた髪の毛を、サンジは丁寧にやさしく持ち上げてはハサミを入れていく。そのとき、「なまえちゃんの一部分が君から離れはらりと落ちていく…。ああ、なんかすこし寂しいや」ってぼやくような声が聞こえてきて、その内容の彼らしさに思わず笑ってしまった。

ぽかぽかした陽気。大きな手に撫でられる髪の毛。そしておだやかな低い声は、ふわりふわりと眠気を誘う。おひとつあくびをこぼせば眠ってしまいそうになるから、ぐっと耐えていると、柔らかな風に乗った花のにおいがふわりと鼻腔をくすぐった。

「わあ、お花のいい香り」
「ロビンちゃんの花壇からだね」

おもわずこぼしたなまえの声に、リズム良くハサミを動かしながらサンジはすぐさま頷いた。はらりとケープのなかに落ちていく自分の髪の毛を見つめながら、「なんのお花かな?」と彼に訊ねる。

「アルメリアだよ。小さな花だけど、強くて芳醇な香りを持っているんだ」

さらりと答える彼に、さすがサンジくんって小さな拍手をおくる。
女性へ送るプレゼントといえばお花、なサンジは幼少期から花図鑑を好んで読んでいたらしい。だから、お花に関する知識はロビンほどではないけれど豊富だった。

「ん…ここ、もう少しだけいこうかな」

耳に彼の節くれたった指が触れて、とくりと心臓がうねった。ケープのなかには程よい量の髪の毛がたまってきて、この照れくさくも心地のいい時間が終わりに近づいてきていることを、知る。
ふんわりと漂うアルメリアの香りを楽しみながら、なまえはふっと目を閉じた。
サンジくん、美容師さんも向いてるなあ。とおもって、でも。他の女の子の髪の毛をこうして“愛すよう”に。触るのは…ちょっぴり嫌だから。男性限定の美容師さんに…。あ、でもそれじゃあサンジくんつまんないかな。だって、女の子大好きだから女の子の髪の毛を切りたいだろうし。なんて、おかしな方向に思考を膨らませていると、まるで心情を読まれたみたいに名前を呼ばれた。

「わ、なあに?」
「かんざしって知ってるかい?」
「え、かんざしって…あの髪の毛につけるやつ?」
「うん、ワノ国が発祥だったかな。あの煌びやかな髪飾り」
「見たことないけど、聞いたことはあるなあ」

イラストか、それとも写真だったか。くわしいことは忘れたけれど、何かの本で見たことをぼんやりと思い出していると、ふ、とお花の匂いがより強くなった。気が付いたときには、ハサミをなくした彼の大きな手が愛でるようになまえの髪の毛を撫でていた。

「この子がそれに似てるんだってさ」
「この子…」

さらりと撫でるようだった手つきは一瞬耳の上で形を作ったが、すぐにするりと通過して、なまえの小さな肩に落ち着いた。ふわり、と羽のような軽さを耳のうえで感じてそっと手を添えてみると、かさっと小さな音が鳴った。

「あ、お花?」
「ケープの中に入ってたんだ。風が強かったから飛ばされちまったんだろうなァ、可哀想に。でも、春のような陽光を持つきみの絹のように美しい髪の毛の上で生涯を終えられるのは幸せだろうな。…うん、とってもよく似合ってる。クソかわいいぜ、なまえちゃん」
「あ、う…っ」
「その反応も。すっげェかわいい。おれ、ずっとドキドキしながらきみの髪に触れていたよ」

覗き込むようにして笑顔を見せると、サンジはなまえの真っ赤な顔に満足したように目尻を撓ませた。そうして、さっぱりした髪の毛を確かめるように撫でながら、ちゅっと一房分のキスをなまえのくちびるに落とす。

「さ、サンジくん……」
「…なあ、なまえちゃん。次も…いや、次からは、おれがきみの髪の毛を切ってもいいかな?」

さらりと、軽くなった髪の毛を掬われながら彼に言われる。

 ウソップに、触らせたくねェんだ。

そう、耳元であつく低く囁かれて。「だめ?」なんて、手を握られて子犬のようなひとみを向けられたら拒否なんて、できない。彼もそれを狙っているからタチが悪い。

「…あんまり、どきどきさせないなら、」
「んー…そりゃあ約束できねェなあ」

その返しに何を想像したのか。沸騰しそなほど顔を赤らめたなまえが控えめにこくりと頷くのを認めて、サンジは満足したように笑った。




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