砕けた星のかけらを抱いて眠る

「……あら?」
 
 明らかな異変を感じたのは今手掛けている作品を完成させようと、女部屋に入った時だった。
 ナミとなまえのベッドが横並びで並ぶ前、ふわふわな絨毯の上に腰を下ろしてパステルを広げると、ずきっと頭が強く痛んだ。
 
 今朝、起きた時から身体が重たくて嫌な熱を感じていたのだが、どうやらそれは気のせいではなかったようだ。
 
「う〜ん……」
 
 今、頭に焼き付けている前に寄った島の景色を早くこのスケッチに形にしてしまいたい。
 絵の材料となるものへの記憶力は誰にも負けないほどに長けている。目を瞑ると、描きたい景色はもちろん。些細な色味や風の吹き方、鳥がいつどのように囀ったかさえも鮮明に思い出せる。
 なまえが奇才だと言われているのは、ここにもあるのだ。
 だけど、描きたい景色というものは今この瞬間に頭に浮かんでいる記憶の中にある。だから今仕上げにかかりたい。
 ──あと少しで出来上がるからそこまでやってからだわ。
 なまえはもう一踏ん張りだともう一度、気合を入れ直して続きの色を乗せていく。
 
 それから数時間後──
 
「出来たわ……!」
 
 見事に描き上げた絵は、スケッチブックの中でキラキラ輝く写真のように鮮やかで美しい景色。だが、中には写真には出せない色のぼかしやパステルだからこそ表現出来る温かさがきちんと残っていて、アリエラ自身もとびきり満足いくものに仕上がった。
 右下にAriellaとサインと今日の日付を入れて、片付けに入ろうと立ち上がった瞬間、くらりと視界が揺れた。それからすぐに息が上がって身体が汗ばんでいたことに気がついた。
 怠さは感じていたが、集中していたため描いてる時は全く気にならなかったのだが意識し始めるとダメだった。感じなかった猛烈な倦怠感が途端に一気に襲いかかってきて……。
 これはただ事ではないわ。可愛いけれど頼りになる船医さんに診てもらわなくちゃ。
 
 ふらふらと壁にすがりながら階段をのぼり、女部屋から倉庫に続く扉を開けるとき、いつもは感じたことない重みを腕に受けた。
 あまりの怠さに身体に力が入らないのだろう。
 続けて倉庫から外に続く扉を開けると、飛び込んできた太陽の光が目に滲みて反射的に瞑ってしまう。少し遅れて、低い声が耳に届いた。
 
「おう、なまえ」
 
 それはたまたま、倉庫の前にいたのが筋トレを終えたばかりのゾロだった。衣類を纏っていない上半身に汗を拭うタオルを首からかけている彼は、出てきた彼女に表情を和らげた。
 なまえが愛しいからごく自然に出る彼のこの柔らかな雰囲気、なまえにしか向くことがないもの。
 
「ゾロ……」
「また絵描いてたのか?」
「……ゾロ…ゾロ、」
 
 何だか、そんな彼を見ていたら気が緩んでしまった。 どうしてかしら、普段はこんな泣き虫なんかじゃないのに。頭が痛くて身体が重く怠くって……何だか自分がふわふわして、箍が外れてしまったみたい。
 
「どうした、なまえ」
「ゾロぉ〜……」
 
 目が合った途端にじわりじわり涙ぐんで、青い瞳に煌めきを増やしてゆくなまえにゾロもギョッとした。
 普段泣くことが滅多にないなまえ、ただ事ではない。驚きながらも近付くと、すぐに次いでの異変に気が付いた。
 
「ん? おい、なまえ。お前、顔が赤ェぞ」
「はぁ……何だか…」
「体調悪ィのか?」
 
 ふわりと感じるゾロの香り、温かさにますますほっとしてじわじわ涙を溜めていくなまえ。
 そんな彼女にゾロはあたふたしてしまう。
 
「お、おい、泣くななまえ!」
「し、しんどいの、ゾロ〜……」
「わ、分かったから泣くな! チョッパーのとこに……ってお前、すげェ身体が熱ィな」
 
 なまえはよくチークで頬を染めているが、それにしては赤すぎる顔。そして、触れて驚いたあまりにも熱い肌。
 なまえの体温はよく知っている、心地の良い柔らかな肌に安らぎを与える体温。だが、今腕に受けたなまえから感じるものは、火傷してしまいそうな程に熱くて。病気を知らないゾロでも、尋常じゃないと心配になる。
 
「はぁ、はあ……」
「苦しそうだな……。ちと待ってろよ」
「きゃっ」
 
 腕にもたれかかっているなまえの小さな身体をひょいと持ち上げて、姫抱きをするとゾロはすぐに船医の元へと駆けていった。
 慌てるゾロが珍しくて、心配してくれているのがとっても嬉しくって。走るたびに身体に伝わる振動が節々に伝わり鈍い痛みが走るからまたしんどさは増すけれど、それでもこういうゾロの態度から愛をとびきり感じられて。
 彼の服を握り締めようとしても力が入らなく、低い切羽詰まったような声色で船医の名を呼ぶ彼の声を最後にななまえは大好きな胸の中で意識を手放した。
 
 ◇
 
 懐かしい夢をみた。
 それは暗く痛く脳裏に嫌に染みついている記憶のおはなし。忘れたいのに、頭の片隅に焼き付いて離れない幼い頃の記憶。
 シックだが華のあるお屋敷の中、暗い部屋の真ん中を陣取る大きなベッド。ふわふわなシーツの中だけが癒しの空間だった。だけど、風邪を引いた時だけは違って。誰かそばにいてほしかった──。
 苦しくてしんどくて。不安に襲われる中、誰かに手を握ってもらいたかった。あの頃の夢。
 緩やかに靄がかってゆく、ぼやけて揺れる蜃気楼のような景色に変わったと思った途端、身体に一気に重みと熱さを感じてゆっくり目を開けてみる。
 
 霧がかった夢の中から鉛のように重たいまぶたを開いたら、細められた鋭い瞳がギラリと光った。
 
「ん……きゃっ!!」
「っ!」
 
 その鋭い目はなまえの最愛の男、ゾロのもの。
 大好きな彼なのだが、人相の悪い顔がどんと大きく飛び込んできてなまえは考える前に悲鳴をあげてしまった。
 反対にゾロも、苦しそうに呼吸を繰り返しているなまえが心配で仕方がなかったため自然と険しい顔になっていたよう。
 
「……ぞ、ゾロ……?」
「どうした、苦しいのか?」
「お顔が……怖いから、びっくりしちゃったわ……」
「そうかよ」
 
 昔からよく言われていて、なまえからも何回か言われたことのある言葉。
 別に気にしているわけでもなく、ゾロは納得してすんなりそれを受け入れた。そして、思っていた以上に彼女のことを心配していたのだとここで初めて気がついた。
 
「身体は怠くねェのか?」
「ん……とても怠いけれど、さっきよりは随分とマシだわ」
「ああ、チョッパーが点滴してくれたからな」
「あら……本当だわ」
 
 自分の真っ白な腕から伸びている細い管になまえははじめて気がついた。
 最愛の男の姿に、ここは今ではよく見慣れた女部屋の自分のベッド。夢の中とは正反対な心から安らげる場所にほっとひと息を吐く。
 
「流行の重てェ風邪だってよ。前の島でもらってきたんだろうな」
「そう……だからこんなにもしんどかったんだわ。あとでトニーくんにお礼を言わなくちゃ」
 
 全身が熱くて呼吸は荒いままだけど、割れそうなほどの頭痛や節々の痛みは和らいでいた。
 あれから一体どのくらい時間が経ったのかしら?
 いつもお昼寝や筋トレをしているゾロがずっと付きっきりでいてくれているなんて……じんわり胸に温かな気持ちが、安心が広がってゆく。
 愛されている事実にくすぐったい気持ちになる。
 
「子どもの頃ね……」
「ん?」
「こうして病気した時、誰もそばにいてくれなかったの。お医者様に診ていただいて、それから必要なものをメイドさんが運んでくるだけ……だから、風邪を引くのが怖かったの」
 
 みんなが私をおじさまの物だと認識して接していたあのお屋敷の中。
 あの人達はみんな、おじさまの存在が言葉が絶対的だったから私のことは美しい人形だとしか思っていなかった。 向けられる目は生身の人間へのものではなく、この世の者ならざぬ美を持つ無機物だというもの──
 
「だから、こうして誰かに……それも愛する貴方に付き添ってもらえているのがとびきり温かくて安心するわ……」
「……ああ」
 
 なまえのこれまでの人生をゾロはほとんど知らない。 名高い女学院に通っていて、お嬢様だったことしか。
 そこには拒絶と何かに対する恐怖が、隠しているのだろうけれど伺えて。詮索する事が嫌いなゾロは何も聞かないままだった。
 なまえが話してくれるまで、待つつもりだ。
 だから、今も体調が悪い中深く聞くこともしたくなく、ゾロはなまえの汗ばんでいる細くて薄い掌をぎゅっと握りしめる。
 我ながら、こんな行為をするなんて。考えたこともなかった、変な気持ちだ。
 
「不安なんざ吹き飛ばしてやらァ。何も気にしねェでゆっくり寝てろ」
「怖い夢を、みたのよ……だからずっと、ずっとそばにいてね」
「ああ。ずっとそばにいるよ」
「ふふ……うれしいわ、ありがとう」
 
 熱にやられてとろんとした真っ赤な顔でふにゃりと微笑むなまえに、辛そうだとまた心配がつのるゾロ。
 こんな心配性ではないのだが、この女のこととなると──。
 おでこに乗せていたタオルはなまえの熱を孕みもう生暖かくなってしまっていた。ベッドテーブルに用意されている氷水をはった洗面器にタオルを浸し、よくしぼってなまえのおでこに戻してやると、彼女は力無く微笑む。
 
「気持ちいいわ、ゾロ」
「だろうな。すげェ高熱出してるもんな、お前」
 
 真っ白なナイトドレスから覗いている首は赤く、触れてみるとあまりにも熱くて驚いた。
 解熱剤を入れているのだが、まだあまり効いていないようだ。
 
「ゾロ……」
「何だ」
「ありがとう」
「礼なんざいらねェからさっさと治せよ」
「うふふ、頑張るわ」
 
 ゾロも柔らかく微笑んで、椅子から腰だけを伸ばしてなまえに顔を近づける。
 いつもよりもずっと熱い体温を感じながら、唇を重ねるとすぐになまえにぐいっと身体を押されて拒否をされた。
 
「何すんだ」
「だめよ、ゾロ……移っちゃうわ」
「ああ? おれが風邪なんか引くわけねェだろ」
「そうだけど、でも……」
「何ならもらってやらァ」
 
 ニヤリと笑むゾロにこんなしんどい中だけれど、きゅんとしてしまう。
 私がケアをきちんとしてあげているから、柔らかくふわりとしたゾロの唇が熱い自分のものに触れて、またクラクラしてしまう。
 熱が上がってしまいそうだわ。
 
「……私のことが大好きなんだから」
「今更何言ってんだよ」
 
 当たり前だろ。と恥ずかしがらずに告げてくれるゾロが愛おしい。まるでお薬のように心を身体を楽にしてくれる。
 幸せというエネルギーはすごいわ。
 
「おら、もう寝ちまえ。薬も効いてきただろ」
「ええ……次はゆっくり眠れそうだわ」
「みんな、心配してるぞ。早く治せよ」
「ふふ、ええ。 ねえ、ゾロ?」
「ん?」
「本当にずっと、そばにいてね……」
「ああ。分かってる、そばにいるよ」
 
 いつもより優しさをひそめたゾロの声色を最後に、なまえは再び眠りについた。
 赤い顔はしているが、熱も少しずつ下がってきている。完治までは時間はかかるだろうが、先ほどよりは随分楽になっただろう。
 すやすや眠るなまえをじっと見つめ、ゾロも同じく目をつむった。
 指先に愛しい熱をかんじながら。
 
 END...

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